最後に赤い旗と白い旗はそれぞれ上と下の...

護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式~出航準備 - ネイビーブルーに恋をして
バーキン片手に靖國神社
祝賀会場からいっこうにやまぬ雨の中、皆は岸壁に戻りました。外に向かいながらテーブルの上を見ると、料理はほとんどが大量に手つかずのまま。これはこのあと三井造船の社員が 総出で食べても片付かないのではないかというくらいでした。わたしもそうでしたが、こんな祝賀会で本当にお腹をいっぱいにしようとすることは皆さんあまり考えられないみたいですね。&&バスに乗って先ほどの天幕まで戻ってみると、椅子が全て片付けられ、全員が立って見送るようになっていました。午前中の式典は前から三番目で、ここぞというシーンを撮り損なったので、午後からは前列でおじさんの頭が写り込む心配もなく思う存分シャッターを押すことができました。旗旒信号が曇り空と護衛艦のグレイをバックにとても美しいのですが、このマスト基部のかなり大型の構造物は何かというと、NOLQ-3D 電子戦装置の一要素を構成するECM装置(電波妨害装置)で、「あきづき」型には最新型が搭載されています。探知した電波の分析、識別、記録を行い、メモリーされた脅威電波に特徴が一致すると自動的に妨害を始めます。マスト上部のこの部分には電子戦装置のESM装置(無指向性空中線、固定型方位空中線&2種、通信波帯空中線)といい、初期の探知と周波数、方向、発信地点を特定します。NOLQ-3は三菱電機製で、平成3年度計画以降で建造された汎用護衛艦(DD)およびヘリコプター護衛艦(DDH)に搭載されています。長旗(指揮官旗)を揚げていたシーンですが、自衛官の左上にある赤いバスケットゴールのようなものを見てください。これは速力標といい「速力マーク」とも呼ばれるもので、艦隊の航行や運動時において艦の速力を表示?指示するためのものです。高さの組み合わせにより速力の基準値を表示し、回転信号標(籠の下に少し見えている旗のようなもの)との組み合わせで細かい速力表示を行います。上下位置の組み合わせで現在の速力を僚艦に伝えるので、速度ゼロの状態である今、この速力標は下方にあるのではないかと想像します。この速力信号標は海上自衛隊独自のものだといいますが、ということは海軍時代から引き継がれた仕掛けであるということですね。艦上にはすでに要所要所乗組員が起立しています。乗艦してから着替え(着替えずに拭くだけ?)、ちゃんと雨着を着ています。こちらは海曹。海士のレインコートは襟元を見せないためにステンカラーですが、曹以上はダブルカラーのダブル打ち合わせ。いかなるときも着崩さず、きっちりとベルトをしめる着方が凛々しいですね。この日は雨の少ないこの玉野市には珍しいくらいの大雨で、確かに晴天の青空の下での式典を見れずに残念だったのですが、その代わりこんな天気だからこそ見ることのできたシーンもあったのです。激しい雨に全身滝に打たれたように濡れながらも、不動の姿勢で眉一つ動かさず立ち続け、このような海の男の(女もいますがそこはそれ、そういうことで)儀式を粛々と行う自衛官たちを見ることができたのはわたしにとって幸運であり、さらにこの雨着で船縁に直立する彼らの姿には理屈抜きで胸に来るものがありました。独断と偏見ですが、雨に濡れた女は「悲劇のヒロイン」めくけれど、雨に濡れた男はひたすら絵になります。(女子隊員はそこはそれ、この場合男と同格ってことで)まこと、「いいもの見せてもらいました」の一言です。航海艦橋の脇にあるウィングに立つ航海長。右側に見えているのは探照灯です。航海長は三等海佐。三佐は旧軍の少佐で船務長や砲雷長?機関長?飛行長といった配置に就きます。また、指揮形態では分隊長として乗員のまとめ役としての役割も担っています。&ちなみに防衛大学と一般大学を卒業した幹部は自動的に二佐まで昇進し、二佐からは制帽の鍔にスクランブルエッグ(スクランブルド、じゃないのね)といわれる&飾りが付くようになります。「海自に入ったら皆憧れる」艦長職は一般的に二佐から回ってきますが、三佐からは掃海艇の艦長、ミサイル艇艦長になることができます。&ちなみに音楽隊長も三佐からの役職です。航海長の双眼鏡の下にブルーのものが見えますが、これは役職によって色が違い、当艦艦長である北御門二佐は、赤と青を用います。青は個艦の幹部、曹士は白を使います。ただし掃海艇やミサイル艇艦長であれば三佐でも赤青を用います。旧海軍では尉官は青、佐官は赤、将官は黄色と決められており、つまり旧軍時代からだいたいは受け継がれて来たもののようです。(特に将官の黄色)この色分けといい速度標といい、普通に受け継がれているものばかり。探せばもっとあるでしょうし、先日からコメント欄で話題になったように「士官室」「当直士官」などという言葉は普通に生きていますから 、海自の「伝統墨守」は精神的なものばかりをいうのではないということがわかりますね。さて、わたしたちが見学の位置に着いたときには、そこここに乗組員が立ち、出航の用意が着々と進められているところでした。甲板艦首後ろ少し寄りの5インチ速射砲の前では海曹たちが整列済み。砲雷科ではないかと思うのですが、気のせいか先任たちはコワモテな風貌。しかし女性海曹もいるようです。こういうのが撮れると望遠レンズがあって本当に良かったと思います。護衛艦の出航に際して象徴的なシーンが撮れたと自画自賛しているのですが、艦首部分に佇むこの集団、どうも全員の役割がはっきり決まっている様子。ただ立って見張りをしているだけでなく、視線の先が全方向を向いていますね。インカムをしている海曹と艦首旗を見守っている海士以外は、四方を「見張り」しているのだと解釈しましたがいかがなものでしょうか。ところで、この一番右の海曹はコートの襟はステンカラーです。????ということは。デザインは皆同じなのだけど、セーラー服の海士は全部ボタンを留めステンカラーに、海士以上はネクタイを見せるためにテーラードカラーに、と決まっているのかもしれません。決まりはともかく、実に合理的なデザインでよく考えられているのに感心しました。さて、出航行事として、艦長以下女子隊員二名、海曹一名に花束贈呈。この段階で公式行事は皆終了しています。花束は艦長以外が受け取り、ここで初めて艦長が感謝の辞を述べました。花束はやはり女性隊員が受け取った方が「華になる」ということでしょうか。先ほどまでのラッタルは一時間の間に取り外されていますから、彼らは舷梯から乗艦します。 花束の三人が乗艦した後、一番最後に乗艦するのもやはり艦長です。三人もそうでしたが、艦長は小走りと言ってもいいくらいの早足でした。思わず見ほれてしまったほどの身のこなしのスマートさ。もしかしたら日常的にそうなのかもしれませんが、階段は一段抜かしで駆け上がって行かれました。ちょうどこのときに「あゝ海軍」について書いたばかりで、兵学校の階段を二段ずつ駆け上がることになっている生徒が、上級生に呼び止められ、何度もやり直しをさせられていたシーンを思い出しました。江田島の幹部学校では、今でも階段はそうやって上るように指導されるのでしょうか。瞬く間に駆け上って三人に追いついてしまいました。(かっこよかった///)さて、この後は出航のため、最後にこのハッチを閉めます。というわけで、まずはここから降ろされている舷梯を今から収納いたします。左側に立っているのは一尉で、腕章をつけています。&このハッチ以外ではみなもう起立して出航の用意は完了している模様。ここから連続写真を撮ってみました。黄色いメガホンがここの責任者の一等海曹。護衛艦に乗ると、入り口に艦長と副長、そして海曹長の写真が掲げてあります。海曹長とは艦艇や部隊ではCPOとして規律維持の役割を担う曹士の最高位で、それに次ぐのがこの一等海曹となります。勿論叩き上げの古参で、海曹長と共にCPOとして艦艇の規律維持に務めます。ラッタルの手すりには丁寧にも紅白のテープが巻かれています。いまからこの手すりを倒してフラットにしますよ。下では三井造船の社員が通路と階段を片付け、降りて来た乗員が手すりを倒す準備。「そこをつかんで倒すんだ!」とベテラン海曹の御指導中。倒して階段にぴったりとくっつけてしまいます。こういうのもオートマチックではなく手作業でしてしまうんですね。この舷梯、写真を見ると非常にわかりやすいのですが、舷梯は船体との接続部分で旋回し、設置するときは引き出すときは皆が(6~7人)下からロープで引っ張ります。うーん。なかなか?????原始的。至れり尽くせりではなく、海自隊員が運用するからこそ「手抜き」の部分もあると見た。一曹が「回せ回せ」と指示しているのは、舷梯を引き上げるワイヤを巻き取る部分の操作。下の二人はワイヤの設置を行っているわけですね。設置完了し、二人も艦に乗り込みます。後ろの隊員はワイヤをつかみ、その上を乗り越えて階段を上りました。ワイヤの巻き上げはさすがに機械がやっております。作動している間、一曹はピッピッピと笛を吹いてます。惚れ惚れするほど美しく収納されて行きます。完全に舷梯がフラットになったら同時にハッチが閉まって行くわけです。ちなみに、ハッチの上に丸いものが二つ見えていますが、これは舷窓。現代の護衛艦には舷窓はほとんどないのですが、艦橋構造物の下部、01甲板のレベルであるここにはご覧のように舷窓が二つだけあります。白い縁取りがなかなか可愛らしいですね。舷窓を目とすると、今から口を閉じて行くわけです。というわけであっという間に(本当に早かった)ハッチは閉まりました。扉が閉じた後はステルス性の保持のために全くのフラットとなり、遠目にはもはやどこがハッチだったかわからなくなってしまうくらいです。いよいよ準備が整い、「ふゆづき」は舞鶴に向けて出航して行くことになりました。これから待ちに待っていた「帽ふれ」が始まるのです。(続く)&
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【橘】有关八旗排序和上三旗下五旗差距的文章
八旗排序问题
清代八旗,即黄、白、红、蓝四旗,后来添加正、镶的区别,计有八个,故而称作八旗。
虽然从旗的顺序来说,一般习惯说成黄白红蓝,然后是正镶依次排列。但是八旗的排序,并不是完全按照正镶来排列的,如《东华录》、《实录》里,八旗的排序都是:“镶黄旗、正黄旗、正白旗、正红旗、镶白旗、镶红旗、正蓝旗、镶蓝旗。”正因为在这种排序中,镶黄旗居首,所以镶黄旗也得到了一个特殊的名字——“头旗”。
于是我们来解释,为什么八旗会有排序的问题。众所周知,镶黄旗是正黄分出,最早的旗主,正黄、镶黄两旗都是太祖本人。《满文老档·天命七年四月》,记载八旗排序的时候,顺序为:“正黄、镶黄、正红、镶红、镶蓝、正蓝、正白、镶白。”由此可知,当时正黄和镶黄都是太祖领有的旗,故而排在前面,并且正黄在镶黄之前。而这时候的头旗,是正黄旗。
但是同样在《满文老档》里,天命八年六月、天命十年两次。排位就替换成了镶黄旗居首,成了“镶黄、正黄、正红、镶红、镶蓝、正蓝、正白、镶白”的格局。这种镶黄旗居首的情形一直持续到清末。
正黄旗和镶黄旗调换的原因,是因为太祖朝后期,镶黄旗是太祖亲领,而正黄则分封给了阿济格、多尔衮兄弟俩。依照《满文老档》,天命朝后期,正黄旗的旗主是阿济格,而多尔衮是副(小旗主)。镶黄旗的旗主则是太祖本人,副是幼子多铎。也就是说,天命后期,只有镶黄旗是太祖本人的旗,故而排在首位,称为头旗。
这种情况持续到天聪三年,天聪三年的时候,正黄又改回头旗。这里涉及到“天聪换旗”,大致说,是老正白与老镶黄,老镶白与老正黄互换旗色,之后,正黄旗的旗主是太宗,镶黄旗则是豪格,故而此时,正黄旗居首。崇德二年,太宗称帝,这时候镶黄旗恢复了头旗地位,具体原因不明。
据一些学者分析,是因为太宗称帝,一定程度上崇尚汉俗,以左为尊,按照八旗的左右分隶。满人尚右,汉人尚左。正黄旗是右翼之首,镶黄旗是左翼之首,所以一些学者认为,这个是镶黄旗最终变为头旗的原因。
上三旗和下五旗的差距
上三旗下五旗,在清灭之后的人的印象里,貌似是有天壤之别的。有人认为上三旗高贵的不行,下五旗都是低贱的人,其实是错的。我们这里讨论的是正身旗人。如果真的要说上三旗比下五旗有多高贵,那也是上三旗包衣远比下五旗包衣高贵。
当然,现实中,上三旗和下五旗也的确有区别,这也是清代“抬旗”的原因。熟悉清史的人都清楚,清代“旗权”一直是个问题,最早为了削弱旗主的权力,太宗、世祖、圣祖、世宗、高宗、仁宗、宣宗都进行了各种手段,到了宣宗朝,可以说诸王贝勒的旗权,彻底疲软。
对于诸王贝勒来说,虽然旗权一直在削减,但是私领的佐领还是有很大发言力。所以,圣祖朝出现了“某王门人”这种称呼,就是在诸王贝勒领有佐领的情况下,造成的影响。
我们谈到旗权,是为了讲上三下五最大的差距之人身束缚。尤其是随丧制度。比如说,我是一个下五旗的旗人,隶属正红旗。正红旗上,有礼王,礼王是军功大王,诸王之首,领有相当多的佐领,按照清代的制度,凡是本旗入八分宗室死亡,本旗旗人要随丧。也就是说,我旗上的亲王、郡王、贝勒、贝子、镇国公、辅国公死了,我也要服丧,这种情况,以八个军功王尤为突出,这也就是下五旗和上三旗最大的差距。试想一下,如果一个皇后没有被抬旗,属于下五旗王公佐领,下五旗王公死了,她按照规矩应该服丧,那么就称为笑谈了。当然,这个制度后来有所修改,有世爵和比较大的官吏,都不再随丧。
另外,下五旗王公对于佐领的影响力,实际上很强,特别是旧王公,很多佐领都是他的旧属,这种人身依附相当严重。我们可以看看《啸亭杂录》,礼王当年建府,基本上正红、镶红所有官僚大臣,都去捐钱出力,这就是人身依附的最好证据。
最后多说一点,上三旗下五旗还有一些比较零碎的差距。比如说,今年年景不好,钱不够,旗饷不够,怎么办?皇帝肯定说,先紧着上三旗发放,这些差距肯定是有的,这里就不多说了。
故而,一言论之,上三旗和下五旗的差距是存在的,但是大体来说,八旗旗民是平等的,这些差距都是细微的,并没有像一些人认为的,有多大的身份差距。
看到对于八旗排序的东西有异议
于是我就发上来了……
对于满洲的常识性介绍,我们还是要尽可能做到详实、正确。
本身对于自己民族的知识,当代族人就比较朦胧,如果科普的时候有错误信息,容易造成不好的影响。
这两段引自璩璇阁讲义第二讲
感谢兄台.,偶有了新认识.........
学习了!!
介个,楼主,貌似是我们胡人尚左,汉人尚右吧
原帖由 浩浩辽水 于
00:33 发表
介个,楼主,貌似是我们胡人尚左,汉人尚右吧
对于左右的说法,历朝历代尊崇不同,所以不能一概而论。
《老子》三十一章:“吉事尚左,凶事尚右。”
《礼记·檀弓》郑注:“丧尚右,右,阴也;吉尚左,左,阳也。”
可知先秦尚左。
《汉书·周昌传》颜师古注:“是时尊右而卑左,故谓贬秩位为左迁。”
可知汉代尊左。
《十驾斋养成新录·左右》:“科场:蒙古、色目人称右榜;汉人、南人称左榜。亦右为上也。”
可知蒙古尚右。
《明史·志》:“部院侍郎,左官班上。”
可知明代以左为尊。
原帖由 橘玄雅 于
02:02 发表
对于左右的说法,历朝历代尊崇不同,所以不能一概而论。
《老子》三十一章:“吉事尚左,凶事尚右。”
《礼记·檀弓》郑注:“丧尚右,右,阴也;吉尚左,左,阳也。”
可知先秦尚左。
《汉书·周昌传》 ...
受教,俺就知道孔老二的吾其披发左衽那句话,印象中,汉人都是尚右的,除了马车人行走左边,大概跟日本一样是怕佩刀碰到一起火并,草原就没这种问题,丛林里的渔猎民族人口一直比较原生态,所以也应该没有,但是为啥就非得左衽?
我猜想,或者是中原人死心眼,自己是右衽,北方民族其实左衽右衽都有,他们非要叫左衽,还披发以说我们祖先野蛮罢了。
其实汉人五千年前还不是入侵中原的游牧民族后代~~沐猴而冠,就充起人样来
原帖由 浩浩辽水 于
22:53 发表
受教,俺就知道孔老二的吾其披发左衽那句话,印象中,汉人都是尚右的,除了马车人行走左边,大概跟日本一样是怕佩刀碰到一起火并,草原就没这种问题,丛林里的渔猎民族人口一直比较原生态,所以也应该没有,但是为 ...
是这样的,随着董仲舒的言论兴起,公羊学和阴阳家,都有一个言论,叫做五行终始说,这个你可能听过。五行终始说有一个附属品,就是左右互换说……
简单说,这种说法认为,灭了某个朝代,就要把那个朝代的左右尊崇调换过来…… 这也是汉族王朝经常调换左右的一种内在原因。
原帖由 浩浩辽水 于
22:53 发表
受教,俺就知道孔老二的吾其披发左衽那句话,印象中,汉人都是尚右的,除了马车人行走左边,大概跟日本一样是怕佩刀碰到一起火并,草原就没这种问题,丛林里的渔猎民族人口一直比较原生态,所以也应该没有,但是为 ...
是这样的,随着董仲舒的言论兴起,公羊学和阴阳家,都有一个言论,叫做五行终始说,这个你可能听过。五行终始说有一个附属品,就是左右互换说……
简单说,这种说法认为,灭了某个朝代,就要把那个朝代的左右尊崇调换过来…… 这也是汉族王朝经常调换左右的一种内在原因。
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