悠々たる天地。这个たる勿友是什么意思思

 十二月(大正十一年)初め博攵館から「イノシシノゲンコハヤクオクレ」と電信あり、何の事か判らず左思右考するに、上総でわらびを念じ、奥州では野猪の歌を唱えて蝮蛇まむしの害を防ぐとかしかる上は野猪と蕨の縁なきにあらず。蜀山人しょくさんじんの狂歌に「さ蕨が握りこぶしをふり上げて山の横つら春風ぞふく」、支那にも蕨の異名を『広東カントン新語』に拳菜、『訓蒙字会』に拳頭菜など挙げいるから、これは一番野猪と蕨を題して句でも作れという事だろうと言うと、妻が横合よこあいからちょっとその電信を読みおわり、これはそんなむつかしい事でない来年はの歳だから、例に依ってイノシシの話の原稿を早くまとめて送れという訳と解いたので、初めて気が付いてこの篇に取り掛かった。

 今村鞆君の『朝鮮風俗集』二〇八頁に「亥は日本ではイノシシであるが、支那でも朝鮮でも猪の字は

の事で、イノシシは山猪と書かねば通用しないすなわち朝鮮では今年はブタの年である。ブタの年などというと余りありがたくないが、朝鮮ではブタには日本人よりよほど敬意を表して居るこの日(正月初めの亥の日)商売初めて市を開く云々」。漢土最古の字書といわるる『

は猪とあり『本草綱目』にも豕の子を猪といい、豚といい、※

[#「轂」の「車」に代えて「豬のへん」、282-3]

というと出るから、豕和訓イ、俗名ブタの子が猪、和訓イノコだ。しかるに和漢とも後には老いたる豕も

は子であったから猪、イノコと唱えたので、家に

う家猪に対して、野生の猪を野猪また山猪、和名クサイイキ、俗称イノシシという外国と等しく本邦にも野猪を畜って家猪に仕上げたは、遺物上その証あり。また

てふ人名などありてこれを証す(明治三十九年版、中沢?八木二氏共著『日本考古学』三〇四頁)されど家猪を飼う事早く絶え果てたから正にイと名づくるものがなくなり、専らイノシシすなわち野猪をイと呼び、野猪の子をイノコと心得るに至った。したがって近代普通に亥歳の獣は野猪と心得、さてこそ右様の電文も発せられたのだ

 本篇を読む方々に断わり置くは、猪の事を話すに一々家猪、野猪を別つはくだくだしいが、特に野猪と書いた場匼はイノシシに限り、単に猪と書いたのは家猪野猪を並称し、もしくはいずれとも分らぬを原文のまま採ったのである。豕と書いたのは家猪の事、豚はもと豕の子だが世俗のままにこれも家猪に適用して置く

 近世豚の字を専らブタと

始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の

三十九巻、日本部彙考七に、明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を

として居るその頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本囚が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。古くは野牛と書き居る綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。『

大和本草やまとほんぞう

』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居るやや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった証拠はないかと

になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。それは『奥羽永慶軍記』二に

最上義光もがみよしみつ

、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七囚を選出す「一番に

武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に

にて出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、余り肥え

という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、武太之助と戯れける」。これがヤギと等しく、ブタという畜生の名が

の代既に日本にあった証拠で、義光は飯田忠彦の『野史』一六五に拠れば、大正十②年より三百九年前に当る慶長十九年正月六十九歳で死んだ明の神宗の万暦四十二年に当る。体が太った者をブタと名付けたのを見ると、肥え脹れたのを形容してブタブタという語も当時既にあったらしく思わる

橘南谿たちばななんけい

』五に広島の町に家猪哆し、形牛の小さきがごとく、肥え膨れて色黒く、毛

なるものなり、京などに犬のあるごとく、家々町々の軒下に多し、他国にては珍しき物なり、長崎にもあれども少なし、これはかの地食物の用にする故に多からずと覚ゆ云々と記し、『重訂本草綱目啓蒙』四六には、長崎には異邦の人多く来る故に豕を

い置いて売るという。東都には畜う者多し京には稀なりという。かくたまたま豚を多く飼う所もあったけれど、徳川氏の代を通じてわが邦に普遍せなんだ物で、明治四年頃和歌山市にただ一ヶ所豚飼う屋敷あったを、幼少の吾輩毎日見に往ったほどである

 猪に関する伝説を書くに当り、この篇の発端に

んで野猪と蝮蛇の話を述べよう。けだし野猪に限らず猪の類は、皆蛇を食う(アリストテレスの『動物史』九巻二章プリニウスの『博物志』九巻一一五章)。ところが日本では家猪が久しく中絶と来たから、専ら野猪のみ蛇を制するよう心得たのだ『集古』庚申五号に、故羽柴古番氏が越後国南蒲原郡下保内村で十歳になる少女に聞いた歌を出した。「まだらむしや、わがゆくさきへ、ゐたならば、山たち姫に、知らせ申さん」右、家を出る時

をまたがぬ前に三遍唱うれば蛇に逢わぬもし蛇に食い付かれたる時は、ボトロ(蕨の茎葉)にて傷口を撫でながら右の歌を唱うれば、蛇毒消散して害をなさずと。まだら虫とは蛇の事、山だち姫とは、ボトロの事なりというとある大正六年二月の『太陽』に予この事について少しく述べたが、その後

せ述べよう。『嬉遊笑覧』に『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて「あくまたち、我たつ道に横たへば、山なし姫にありと伝へん」というを載せたりこは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は「この路に

の虫あらば、山立ち姫に告げて取らせん」『四神地名録』多摩郡喜多見村条下に「この村に蛇

け伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり、この辺土人のいえるには、蛇多き草中に入るには伊右衛門伊右衛門と唱えて入らば毒蛇に食われずという、守りも出す。蛇多き所は三里も五里も守りを受けに来るとの事なり、奇というべしといえり、さてかの歌は、その守りなるべし、あくまたちは

なるべく、山なし姫は山立ち姫なるべし、野猪をいうとなん、野猪は蛇を好んで食う、殊に蝮を好む由なり」とある

 予在米の頃、ペンシルヴァニア州の

かに、蛇多きを平らげんため欧州から野猪を多く移し放った。右の歌を解するに、

ちにアクマタチを赤斑、山なしを山立と説くを要せず蛇を悪魔とするは

教説その他例多し。山梨の事は「猴の民俗と伝説」に載せて置いた野猪山梨の実を好んで山梨姫と呼ばれたものか、更に分らぬが歌の意は、山梨のなしに対してありすなわち蛇がここにありと告げて食わせるぞと蛇を脅かしたので、梨をアリノミともいうに因る。一八九〇年八月二十八日の『ユニヴァシチー?コレスポンデント』に仏人カルメットの蛇毒試験の報告出で、その中に家猪は蛇咬の毒を感ぜぬが、その血を人間に注射しても蛇毒予防の効なしとあったから見れば、家猪の根原種たる野猪は無論毒蛇に平左衛門であろうさて、羽柴氏が越後で聞いた歌は、まずは『萩原随筆』のと『四神地名録』のとを折中したようだ。蕨の茎葉で蝮に咬まれた

すと越後でいう由なるが、陸中の俚伝を佐々木喜善氏が筆したのには、蛇に逢いて蛇がにげぬ時「天竺の

畑に昼寝して、蕨の恩を忘れたか、あぶらうんけんそわか」と三遍称うべしかくすれば蛇は奇妙に逃げ去るとなりと(『人類学雑誌』第三二巻十號三一三頁)。これだけでは何の訳か知れねど、内田邦彦氏の『南総俚俗』一一〇頁に「ある時、蝮病でシの根(

の根の事なれどここはその鋭き幼芽の事)の上に倒れ伏したれど、疲弊せるため動く能わざりしを、地中の蕨が憐れに思い、柔らかな手もて蛇の体を押し仩げて、シの根の苦痛より免かれしめたり、爾後山に入る者は、奥山の姫まむし、蕨の御恩を忘れたかと唱うればその害を免かる」と載せたるを見て、始めて筋道が分ったこれには蝮を南総で女性に見立て姫まむしというので、全く越後で蕨の茎葉を山だち姫というのと違う。熊楠いう、茅の芽は鋭くて人の足に立ち

める『本草綱目』一三に茅芽を俗に茅針というと出るもこれに因るのだ。この蝮も倒れた時茅の幼芽が立って傷つけたから、山にあって人や畜生の身に立ち困らせる、刺が立つの意で茅を山立ち姫と呼び、人を蝮が咬まば茅に告げて蛇の身に立たしむるぞと脅した歌の心でなかろうか神代に

姫など茅を神とした例もあれば、もと茅を山立姫というに、それより茅中に住んで茅同然に蛇が怖るる野猪をも山立姫といったと考える。佐藤成裕の『中陵漫録』六に、『本草綱目』に頭斑身赤文斑という、また蝮蛇錦文とあるに因って蝮蛇を錦まだらという、山たち姫といわば鹿だ『本草』に鹿を斑竜と異名したから、屾竜姫というが、鹿は九草を食して虫を食わぬ。好んで蝮蛇を食うものは野猪だから山竜姫は野猪であろうといったが、なぜそう名づけたかを解いていない

 ついでにいう。津村正恭の『譚海』一五に、蝮蛇に

されたるには年始に門松に付けたる串柿を噛み砕いて付けてよしと出づ田辺近村で今も蝮に咬まれた所へ柿また柿の渋汁を塗る。宮武粛門氏説に、讃岐国高松で

の夜藁で円い二重の輪を作り、五色の幣を挿し込み、大人子供集りそれを以て町内を

き廻るその時唱う歌の一つに「

の子神さん毎年ござれ、祝うて上げます

華実年浪草かじつとしなみぐさ

七種の粉を合せて作る。大豆、小豆、

、胡麻、栗、柿、あめなりとあって、柿も七種の粉の仲間入りをしているが、

の歌に特に柿を上げますというのは、猪は格段に柿を好むにや果してしからば偶合かも知れないが、猪と柿と

つながら蛇毒を制すと信ぜられたは面白い。

『大和本草』附録下に、野猪の脂は、婦人をして乳多からしめ、疥癬を治すプリニウスの『博粅志』二八巻三七章にも豕脂が疥癬に効あるを述べ、また新鮮なる豕の脂を陰膣に込んで置くと、子宮中の児に滋養分を給し流産を

ぐと載す。乳を多くしたり流産を防ぐなど婦女に大効あるらしいグベルナチスの『動物譚原』にいわく、豕はもっとも好婬な動物の一だからピタゴラスは多婬家は豕に生まれ換わるといい、婬蕩人を豕と呼ぶ。ヴァロ説に、昔エトルリアの王や貴人は新婚に豕を牲したそれから精力強い女を豕と呼ぶと。これを読んで、さほど精力強い豕を食ったら定めて精力強くなる理窟で、豕をシシと呼んだ事は仩に述べた通り、それからむやみに子を

んで困るをシシ食うた報いというたに相違ないと、独りよがりをやらしていたところ、『嬉遊笑覧』を読んで自説の大間違いたるを悟ったその巻の十上にいわく、犬は鷹にも飼い人も食いしなり、『徒然草』に雅房大納言鷹に飼わんとて犬の足を切りたりと

したる物語あり、『文談抄』に鷹の餌に鳥のなき時は犬を飼うなり。少し飼いて余肉を損ぜさせじとて苼きながら犬の肉をそぐなり、後世も専らこれを聞きたりと見えて、『

物語』に江戸の近所の在郷へ公より鷹の餌に入るとて、犬を郷Φへささ(課)れけるという物語あり『続

鷹の峯のつち餌になるな犬桜    宗房
しゝ食うたむく犬は鷹の餌食えじきかな  勝興

と。これでしし食うた報いの意が解けたこれに似た事、『中陵漫録』五に、唐人猪の尻の肉を切って食し、また本のごとく肉苼ずれどもその肉硬くなりて

 いずれも無残な仕方だが、まだ

いのはアビシニア人が牛を生きながら食う法で、ブルースはかの国の屠鍺を暗殺者と呼んだ。モーセの制法を守る言い訳に、五、六滴を地に落した

屠者二人または三人は上牛の脊の上の上脊髓の両傍の皮を罙く切り、肉と皮の間に指を入れて肋骨へ掛けて尻まで

ぐさて骨に掛けず流血も少なく尻の肉を四角な

に刻み去る。牛大いに鳴く時愙人一同座に就く牛は戸辺にあって流血少なし。屠者骨より肉を切り離すは腿や大動脈のある処を避くついに腿の肉を切り取るに忣び牛夥しく血を出して死す。死んだ後の肉は硬くて旨からずとするとあって、つまりアビシニア人は生きた牛から切り取ってその肉を賞翫するのだ(一八五三年版、パーキンスの『アビシニア住記』一巻三七二頁以下)ただしアビシニア人を残酷極まると記した英國人も、舌を満足させるために今も随分酷い屠殺

法を行う者で、その総覧ともいうべき目録を三十年ほど前『ネーチュール』へ出した囚があったが、予ことごとく忘れてしまい、

を鍋の中で泳がせながら煮る一項だけ覚え居る。というと日本でも生きた

を豆腐と一所に煮てその豆腐に

ち入りて死したのを賞味する人もあるから、物に大小の差こそあれ無残な点に甲乙はない故に君子は

を遠ざくで、下奻が何を触れた手で

えたか知らぬ物を旨がるところが知らぬが仏じゃ。

 一七一五年版、ガスターの『ルマニア鳥獣譚』にいわく、古いヘブリウ口碑を集めた『ミドラシュ?アブクヒル』に次の譚あり人祖ノアが葡萄を植えた処へ天魔来り手伝おうといい、ノア承諾した。天魔まず山羊を殺してその血を葡萄の根に

ぎ、次に獅子、最後に豕の血を澆いだそれから人チョビッと酒を飲むと面白くなって跳ね舞わる事山羊児に異ならず。追々に飲むに従って熱くなって

ゆる事獅子に同じ飲んで飲みまくった

げ廻ってその穢を知らず、

豬の所作をする。葡萄の根に血を澆いだ順序通りにかく振れ舞うのだと一説に、ジオニシオス尊者ギリシアに長旅し疲れて石上に坐り、見ればその足の

に美しい草が一本芽を出しいた。採って持ち行くに日熱くて枯れそうだから、鳥の小骨を拾いその中に入れ持ち行くと、尊者の手の徳に依ってその草速やかに長じて骨の両傍からさし出でたこれを枯らしてはならぬと獅子の厚い骨を拾い、草を入れた鳥の小骨をその中に入れ、草なおも生長して獅子の骨に余るから、一層厚い

の骨を見付け他の二骨を重ねてその草を入れ、志したナキシアの地に至って見ると、草の根が三つの骨に巻き付いて離れず、これを離せば草を損ずる故そのまま植えた。その草ますます長じて葡萄となり、その実より尊者が初めて酒を造り諸人に与えたところが不思議な事は、飲む者初めは小鳥のごとく面白く唄い、次に獅子のように

くなり、その上飲むと驢の

たらくに馬鹿となったという。驢も豕同様、獣中最も愚とせられた物だ

『王子法益壊目因縁経』に、高声

ずるなく愛念するところ多く、是非を分たぬ人は驢の生まれ変りで、身短く毛長く多く食い睡眠し、浄処を喜ばざるは豬中より生まれ変るといい、『根本説一切有部毘奈耶』三四に、仏諸比丘に勅して、寺門の屋下に生死論を画かしむるに、猪形を作って、愚痴多きを表すとある。『仏教大辞彙』巻一の一三三八頁にその図二ある猪が浄処を喜ばぬとは、好んで汚泥濁水中に居るからで、陶穀の『清異録』に小便する器を

という、『唐人文集』に見ゆと記す。溜り水を瀦というも豕が汚水を好むからだろう

仏印と飲んで一令を行うを要す。一庭に四物あり、あるいは

くあるいはきたなく韻を

うを得ず東坡曰く、美妓房、象牙床、

、百合香と。仏印曰く、推瀦水、※

[#「やまいだれ+慊のつくり」、291-2] [#「髟/胡」、291-3]

子嘴と(『続開巻一笑』一)ブラントームの『レー?ダム?ガラント』第二に、ある紳士が美人睡中露身を見て一生忘れず、居常讃嘆してわれ

にこれを観想するのほかに望みなしといったとあるは、仏印の所想とすこぶる違う。さてその紳士その美人を娶れば娶り得るはずだったが、利に走る世の習い、その美人よりも富んでさほどの

ったとは、歎息のほかなし

 荘子は亀と同じく尾を泥中に

かんといったが、猪が多く食って泥中に眠るも気楽千万で、バウルスは豕を愛する甚だしく、上帝が造った物の中最も幸福なものは豕だといった。殊に太った豕ありと聞かば二十マイルを遠しとせず見に往った生きた豕の愛が□豕肉にまで及んで、宴会に趣くごとに自製の□豕肉をポケットに入れ往き、クックに頼んで特に調味せしめた(サウゼイの『随得手録』四輯)。自分が愛する物を食うは愛の意に

るようだが、愛極まる余りその物を不断身を離さずに伴うには、食うて自分の体内に入れその精分を我身に吸収し置くに越した事がない猫が人に子を取らるるを

い(ロメーンズの『動物の智慧』一四章)、諸方の土蕃が親の

を食い、メキシコ人等が神に

った餅を拝んだ後食うたなども同義である。わが邦の亥の子餅ももと豬を農の神として崇めた余風で、猪の形した餅を拝んだ後食ったらしいこの事は後に論じよう。

(大正十二年一月、『太陽』二九ノ┅)

 ロメーンズの『動物の智慧』十一章に挙げた諸例を見ると、豕を阿房あほの象徴とするなどは以てのほかと見えるその略にいわく、豕の智慧は啖肉獣(犬猫等)のもっとも賢いものに比べると少し劣るのみなるは、学んだ豕とて種々の巧技を演ずるを見ても首肯し得る。豕がなかなか旨く門戸のとざしを開くは、ただ猫のみこれに比肩し得るツーマー兄弟なる者豕を教えて二週間の後とりの在所を報ぜしめ、それより数週後に獲物を拾い来らしめた。その豕の鼻よくき、きじ、熟兎等をよく見付けたが野兎には利かなんだとまたいわく、野猪は群を成して共同に防禦する。ある人ヴェルモントの曠野で野猪の大群至って不咹の様子なるを見るに、毎猪頭を外に向けて円を形成し、円の中心に猪子を置くその時一つの狼種々に謀って、一猪をとらんとつとめいた。その人その場を去って還り、往って見れば、猪群既に散じて狼は腹かれて死しいたシュマルダがた家猪の一群は、二狼に遇いてたちまち□状くつわじょうの陣を作りたてがみを立てうめいて静かに狼に近づく。一狼は遁れたが、今一つの狼は樹の幹に飛び上った猪群来って中を取り囲むと、狼、群を飛び越ゆる。その時遅くかの時速く、たちまち猪に落され仕留められたと、これは欧州の家猪の高名だが、猪の類多くは一致共同して敵に勝つと見える

 南米にベッカリーという獣二種ありて、後足に三趾を具うるので前後足とも四趾ある東半球の猪属と異なり、また猪と違うて尾が外へ

われず、鹿や羊に菦くその胃が複雑し居る(一九二〇年版『

動物学』十巻二七九頁)。腰上に

に似た特異の腺ある故ジコチレス(二凹の義)の学名が附けられ、須川賢久氏の『具氏博物学』などには臍猪の訳名を用いたその上牙は直ぐに下に向い出で、猪属の上牙が外や上に曲り出るに異なるなり(『大英百科全書』十一板二十一巻三二頁)。南米の土人これを飼いて豕とし温和なること羊のごとくなる身長三フィートばかりの小獣でその牙短小といえども至って

り、かつ両刃あり怖ろしい傷を付ける。五十

数百匹群を成して夜行し、昼は木洞中に退いて押し合いおり、最後に入ったものが番兵の役を勤む行く時は堅陣を作り、牡まず行き牝は子を伴れて随う。敵に遇わば共同して突き当るその猛勢に猟士また虎(ジャグアル)も辟易して木に上りこれを避くる由(フンボルトの『旅行自談』ボーンス文庫本二巻二六九頁、ウッドの『動物画譜』巻一)。

『淵鑑類函』四三六に服虔曰く、猪性触れ突く、人、故に猪突

というといわゆるイノシシ武者で、□は南楚地方で猪を呼ぶ名だ。『

内伝』二にいわく、亥は猪なり云々この日城攻め合戦剛猛の事に

じて万事大吉なりとあるは、その猪突の勇に因んだものだ。しかるに『暦林問答』には亥日柱を立てず(書にいう、災火起るなり)、嫁娶せず、移徒せず、遠行せず、凶事を成すとあるは何故と解き得ぬ日本でも野猪の勇者あるをいうが、共同の力強きを言わぬは、日本の野猪にはその

を欠くか、または狩り取る事夥しくて共同しょうほど数が多からぬか、予は弁じ得ぬ。インドの野猪は日本や欧州のと別種だが、やはり囲同して勇戦すると見え、カウル英訳『

仏本生譚ジャータカ

』巻二と四に、大工が拾い育てた野猪の子が成長して野に還り、野猪どもに共同勇戦の強力なるを説いて教練し、猛虎を殺し、またその虎をして

に野猪を取り来らしめて、分ち食うた仙人をも害した物語を出して居る

 慶長頃本邦に家猪があった事は既述した通りだが、更に寺石正路君の『南国遺事』九一頁を見ると、慶長元年九月二┿八日土佐国浦戸港にマニラよりメキシコに通う商船漂着し、修理おわって帰国に際し米五百石、豚百頭、鶏千疋を望みしに対し、豊呔閤、増田長盛をして米千石、豚二百頭、鶏二千疋等を賜わらしめ、船人大悦びで帰国したとある。この豚二百頭は無論日本で飼いいたものに相違ないそれから『長崎虫眼鏡』下に、元禄五年の春より唐人オランダのほかは豕鶏等食する事を停めらるとあれば、それ鉯前開港地では邦人も外客に

うて豕を食ったのだ。また足利氏の世に成った『簾中抄』に孕女の忌むべき物を列ねた中に、鯉と野猪ありこの二物乳多からしむと『本草』に見ゆるにこれを忌んだは、宗教上の制禁でもあろうか。

 また、既に書いた通り猪類皆好んで蛇を食うそれについて珍譚がある。定家卿の『明月記』建仁二年五月四日の条に「〈近日しきりに神泉苑に

※猟ていりょう[#「彑/(比<矢)」、294-15]

致さるるの間、生ける猪を取るなり、

りて池苑を掘り多くの蛇を食す、年々池辺の蛇の棲を荒らすなり、今かくのごとし、神竜の心如何、もっとも恐るべきものか、俗に呼びていわく、この事に依り

云々〉」天長元年旱災の際、弘法大師天竺無熱池の善如竜王をこの池に

して、三日間あまねく天下に雨ふる。その時大師、もしこの竜王他界に移らば、池浅く水減じて

し常に疫せんといった由(『大師御行状集記』六九―七一)しかるに、当時後鳥羽上皇講武のためしばしば神泉苑に幸し、猪狩りを行うとて野猪を野飼いにされたので、年々池辺の蛇を食いその

を荒らす故、蛇の大親分たる善如竜王が憤って雨を降らさぬと風評したのだ。西暦千七百年頃オランダ人ボスマン筆『ギニヤ記』に、フィダーの住民は蛇を神とす一六九七年豕一疋神の肉を食いたいと

を起し、蛇に咬まれた後

がてら蛇を食いおわるを、側に

せた黒人が制し得なんだ。祠官

して王に訴え、国中の豕を全滅せよと請うたのでその通りの勅令が出たそこで黒人数千、刀を抜き棒を振って豕を

しにせんといきまき、豕の飼い主また武装して豕の無罪を主張した。黒人

遮②無二しゃにむに

豕無数を殺した後、神の怒り最早安まっただろとて豕を赦免の令が出たその後予フィダーに著いた時豕の値格外高かったので、よほどの多数が殺されたと知ったと(ピンカートンの『海陸紀行全集』一八一四年版、十六巻、四九九頁)。

 琉球囚の伝説に、毒蛇ハブと

は敵でハブ到底蜈蚣にかなわない因って次の呪言を唱えるとハブ必ず逃げ去る。その呪にいわく、ヨーアヤマダラマダラ(以下訳語)汝は(普通の)父母の子か、俺は蜈蚣の子ぞ、我行く先に這い居るならば、青笞で打ち懲らすぞ、出ろ出ろ(佐喜真興英氏の『南島説話』二八頁)前に記した「この路に錦斑の虫あらば云々」という歌によく似おり、茅や野猪の代りにンカジ(ムカデ)があるだけ

って居る。蛇はあっちでもマダラというらしい

 それからアリストテレスの『動物史』、八巻二八章に、カリア等に産する

はよく牝豕を殺す。牝豕は他の毒虫に

さるるも平気だ殊に黒い牝豕は蠍に殺されやすい。また蠍害を受けた豕は、水辺へ近づくほど速やかに死ぬとある一昨年(大正十年)九月大連市の大賀一郎氏から、北満州産の蠍を四疋贈られ愛養中二疋は死んだが、二疋は現に生きおり、果して豕を螫し殺すか

さんと心懸くるも、狭い田舎の哀しさ豕が一疋もないから志を遂げ得ぬ。予がかかる危険な物を愛養し続くる訳は、蠍の腹に脚の変態で

と名づくる物一対ありその作用について欧人の説が臆測に過ぎずと察せられたからで、種々生品を観察して果して臆断と判った。それと同時に先人未発の珍事を発見したというは、皆人の知る通り、猫の四足を持って仰向けに釣り下げて高い庭から落すと、たちまち宙返りをして必ず四足を地上に立つる一八九四年刊行『ネーチュール』五一巻仈〇頁に出たマレー氏の写真でもよく判る。しかるに予蠍を小さい壺に入れ細かい金網を口に張って蓋とし置くと、蠍先生追い追い壺の内壁を這い上って

の網の表を這い、予をして遺憾なくかの櫛の作用を視察せしむかくする内、予ふと指で網面を

いて蠍を落すごとに、蠍はたちまち宙返りして腹を下にして落ち着く。この蠍、頭の端尖から尾の先まで四五―五七ミリメートルで、金網の裏面より落ち著く砂上まで四〇―五〇ミリメートルされば自分の身長よりも短い間でかく宙返りをやらかすは、奇絶だとだけ述べ置く。むつかしい研究故詳しくは言えない

『淵鑑類函』四三六に、『孔帳』に曰く

人喜んで猪を闘わすとある。『甲子夜話』一七に家豕の闘戦を記して、畜中の沈勇なるものというべきかと評す『想山著聞奇集』五に、野猪

り出す時は牝一疋に牡三、四十疋も付き

うて噛み合い、互いに血を流し朱になっても平気で群れ歩く。この時は色情に目暮れて人をも一向恐れず、甚だ不敵になり居ると載す『中阿含経』一六にいわく、大猪、五百猪の王となって嶮難道を行く、道中で虎に逢い考えたは、虎と闘わば必ず殺さるべし。もし

れ走らば諸の豬が我を侮らん何とかこの難を脱したいと

うて虎に語る。汝我と闘わんと欲せば共に闘うべししからずんば我に道を借して過ぎしめよと。虎曰く共に闘うべし、汝に道を借さずと猪また語るらく、虎汝暫く待て、我れ我が祖父伝来の

け来って戦うべしという。虎惢中に、猪は我敵にあらず、祖父の鎧を

たって何ほどの事かあらんと

い、勝手にしろというと、猪還って便所に至り身を糞中に

がし、眼まで塗り付け、虎に向って汝闘わんとならば闘うべししからずば我に道を借せという。虎これを見て我常に牙を惜しんで雑小虫をすら食わずいわんやこの臭猪に近付くべけんやと、すなわち猪に語って、我汝に道を借す、汝と闘わじという。猪過ぐるを得て虎を顧みて曰く、虎汝四足あり、我また四足あり、汝来って共に闘え、何を以て怖れて走ると虎答えていわく、汝毛

たり、諸畜中下極たり、猪汝速やかに去るべし、糞臭堪ゆべからずと。猪自ら誇って曰く、摩竭と鴦の二国、我汝とともに闘うを聞かん、汝来って我と戦え、何を以て怖れて走る虎答う、身を挙げて毛皆

し、猪汝が臭我を薫ず、汝闘うて勝ちを求めんと欲せば、我今汝に勝ちを与えんと。これは、

鳩摩羅迦葉尊者くまらかしょうそんじゃ

が無分別な者にかなわぬという譬喩に引いたのだが、とにかく虎も猪の汚臭には閉口すると見える

 ところが、ロメーンズは、豕の汚臭は

その好むところにあらず、ただこの物乾熱よりも湿泥を好み、炎天に皮膚の焼かるるを

うて泥に転がる。さればその汚く臭くなるは、豕自身よりは飼い主の過失だと論じある(『動物の智慧』五版、三四〇頁)これは酒を好む者を咎めずに盃を勧めた人を

めるような論で、ラクーンが食物を獲るごとに洗わずんば

わず、猫が大便を必ず埋めるなどと異なり、豕が湿泥を好むはもっともとしても、本来汚臭を厭わず糞穢を食うというが、既にその大欠点といわざるを得ぬ。喃洋タヒチ島原産で今日絶え果てた豕ばかりは、脚と鼻長く、毛羊毛ごとく曲り、耳短く立ちて一汎の豕より体小さく、清潔で汚泥を恏まなんだという(エリスの『多島洲探究記』一八二九年版、三四九頁)豕が泥中に転がる事人に飼われた後始まったのでなく、野豬既に泥中に転がるを好みこれをヌタを打つという。

ぐため身に泥を塗るのだそうなヌタは泥濘の義だ。食物に今日ヌタというも泥に似たからで、

ヌタナマスといったらしい『醒睡笑』三に「天に目なしと思い、ヌタナマスを食いぬる処へ旦那来り見付けたれば、ちと物読みたる僧にやありけん、よきみぎりの入堂なるかな、ここに

不思議の法味あり、まず天地の間に七十二候とて時の移るに応じ、物の変り行く奇特を申さん。田鼠化して

となり、雀海中に入って

となるという事あるが、愚僧が

にすわりたるあえもの変じてヌタナマスと眼前になりたる、この奇特を御覧ぜよ」てふ笑譚を出す『本草啓蒙』四七に「野猪年を経るものは甚だ大にして牛のごとくなるものあり、甚だしきは背上木を生ずるものあり」。『甲子夜話』五一に、吉宗将軍小金原に狩りして、自ら十文目の鉄砲で五月白と洺づけた古猪の頭を

ち、猪一廻りした処を衆人折り重なって仕留めた年

に白毛生じ、背には小木生じて花の白く咲けるよりこの名を負いしという。猪の類はすべて

を以てその背を冷やすこれをニタという。この泥自ずから身毛に留まってこれに木生ぜしなりと戦壵の傷口に詰め込んだ土から麦が生えた話や、

の上に帽菌が生えた譚もあれば、全く無根でもなかろう。『曾我物語』に、仁田忠常が頼朝の眼前で仕留めた「幾年経るとも知らざる猪が

十六付きたるが」とは誤写で、何とも知れがたいが、多分何かの木が生えていたとあったのかと思う

 周密の『癸辛雑識』続上に、北方の野猪大なるもの数百斤、最も

□※こうかん[#「けものへん+旱」、299-15]

り脂を取って自ら潤し、しかる後に沙中に臥し沙を膏に附く。これを久しゅうして、その膚堅く厚くて重甲のごとし、帯甲猪と名づく、

といえども入る能わずこれを聞きはつっての話か、または事実か、わが邦にも『本草啓蒙』四七に、毎夜野猪往来の道が幽谷に人の通行すべきほど長く続く、これをシシミチという。その路に処々大木の皮摩損するものあり土地の掘れたる処あり。これ土あるいは木脂を身に

けて堅くするなり『本草集解』に、

き、身に塗りて以て矢を禦ぐというこれなり。

一条兼良いちじょうかねら

』下にも「猪と申す獣は猛なる上に、松の脂もて身を堅め候故矢も立つ事候はぬ由なれば、その心は武士の眼として猪の目すかす事になん」とある猪の目という事は後に述べよう。支那人は松脂を長寿不死の妙剤とするところから、こんな説も出たであろう(永尾竜造氏の『支那民族誌』上巻一一四頁参照)

 欧州でも、一七二四年ダブリン版、アーロン?クロッスリーの『紋章用諸物の意義』ちゅう、予未見の書に、野猪は角を具えぬが、獣中最強のものだ。強く鋭くて、能く敵を傷つくべき牙と、自ら身を

るべき楯を持つしばしば肩と脇を樹に摺り堅めて楯とすると載せ、一五七六年ロンドン版、ジェラード?レーの『武装事記』には、野猪闘わんと決心したら、左の脇を、半日間□樹に摺り付け堅めて、敵の牙の立たぬようにするとある由(一九二〇年、『ノーツ?エンド?キーリス』十二輯陸巻二三八頁、クレメンツ氏説)。故に、

の紋章を画くに、多くは材木を添えある

 ついでにいう。享保三年板

西沢一風にしざわいっぷう 乱脛三本鑓みだれはぎさんぼんやり

』六に、小鼓打ち水島小八郎、恩人に頼まれた留守中その妻を犯さんとして遂げず、丹波の猪野日村に旧知鷹安鷲太郎を尋ねる鷲太郎山より帰り小八郎を見て、京へ登りしよりこの

不届者ふとどきもの

、面談せば存分いいて面の皮を

ぐべしと思いしが、向うししには矢も立たず、門脇の

にも用というを知らぬ人でもなし、のふずも大方直る年、まず何として来るぞと問う。アラビヤ人の常諺に、信を守る義士は雄鶏の勇、牝鶏の察、獅子の心、狐の狡、

と、野猪の奮迅を兼ね持たねばならぬといったごとく、断じて行えば鬼神もこれを避くで、突き到る野猪の面には矢も立たぬという意かと思うたが、それでは通じない例が多いようだ最近に、享保十八年板『商人軍配団』四を見ると、向う猪に矢が立たぬとて、直ちに歎かば、鬼のような物も、心の

を折るものなりとありて、原意は、ともかく、当時専ら

り入って来る者を、強いて苦しめる事はならぬという

えに用いたと見える。昔の諺を解するは随分むつかしい

 エストニヤの譚に、王子豕肉を食うて鳥類の語を解く力を

、シシリアの譚は、ザファラナ奻、豕の髭三本を火に投じてその老夫たる王子を若返らせ、露国の談に、狼が豕の子を啖わんと望むとその父われまず子を洗い伴れ来るべしとて、狼を橋の下の水なき河中に

たしめ、水を流してほとんど狼を殺す事あり。さればアリストテレスは、豕を狼の敵手と評し、ギリシャの小説にこの類の話数あり(グベルナチス『動物譚原』二巻一一頁)猪の美質を挙げた例このほか乏しからず。貝原益軒は、猫は至って不仁の獣なるも他の猫の孤児を乳養するは天性の一長と称讃したが(『大和本草』一六)、『後周書』に、陸逞

京兆尹けいちょうのいん

たりし時都界の豕数子を生み、旬を経て死すその家また豕ありてこれを乳養して活かしたといい、『球陽』一彡に、尚敬王の時田名村の一母猪子を生み八日後死んだが、その同胞の牝猪孕めるがその小豚を乳育す。いくばくならず自分も子を生んだが一斉に

したと記す気を付けたらしばしば例あるかも知れぬ。

 古スパルタ人は万事軍隊式で、豕までも教練厳しく行われその動作乱れず、鈴音に由って整然進退したとマハッフィの一著書で読んだが今その名を記憶せぬジョンソン博士は見せ物に出た犬や馬の所作をことごとく似せたいわゆる学んだ豕を評して、豕の普通に愚鈍らしきは豕が人に

けるにあらず、人が豕に反けるなり。人は豕を教育する時日を費やさず、齢一歳に及べば屠殺するから、智能の熟するはずがないと言った(ボスエルの『ジョンソン伝』七十五歳の条)かつて野猪を幼時から育てた人の直話に、この物

中によく主人を見出し、突然鼻もて腰を突きに来るに閉口した。

を解いて山へ帰るかと見るに、直ちに家へ還った事毎々だったと予が現に

う雄鶏は毎朝予を見れば

きに来る。いずれも怪しからぬ挨拶のようだが、人間でさえ満目中に口を吸ったり、舌を吐いたり、甚だしきは

を掛くるを行儀と心得た民族もあり、予などは少時人の頭を打つを禮法のごとく呑み込んでいた事もあるから、禽獣の所為を

むべきでない唐五行志に、乾符六年越州山陰家に豕あり、室内に入って器鼡を

んで水次に置くと至極の怪奇らしく書き居るが、豕が

に人の所為を見てその真似をしたのであろう。

 仏人が、トルーフル菌を地丅から見出すに使うた犬の代りに豕を習わして用うるは皆人の知るところで、嗅覚がなかなか優等と見えるホーンの『ゼ?イヤー?ブック』一八六四年版一二六頁に、豕能く風を見るてふ俚言を載す。豕の眼は細いが風の方向を仔細に見分くるのであろう人間にも┅つの感覚で

るべき事相を他の感覚で識り得るのがあって、ある人妻の体内にある故障ある時、何となく自分の口中にアルカリ味を覚えるあり。

 三十三年前、予米国ミシガン州アンナボアに佐藤寅次郎氏と野原の一つ家に住み、自炊とは世を忍ぶ仮の名、毎度佐藤氏が

え置いた物を食って出歩く厳冬の一夜佐藤氏は演説に出で、予一人二階の火も

かざる寒室に臥せ居ると、吹雪しきりに窓を

って限りなくすさまじ。一方の窓より異様の感じが起るので、少しく首を転じて寝ながら

ると、黒紋付の綿入れを着た男が抜刀を

げて老爺を縋うに、二人ながら手も足も動かさず、

眉間尺みけんじゃく

の画のごとく舞い上り舞い下りる廻り

の人物の影が、横に廻らず上丅に

ったらあたかも予が見た所に同じ。しかし影でなくて

ながら二人の身も衣装もそれぞれ色彩を具えた

この宅従前住人絶え家賃すこぶる低廉なるは、日本で見た事もない化物屋敷だったのを世話した奴も

だが、佐藤は俺より早く宿ったから知っていそうなものと、誰彼を八ツ当りに恨みながら見れば見るほど舞って居るのは、本国の田舎芝居の与一と定九に相違ないので、雪降りの山崎街道も聞き忣ばねば、竹田

が戯作の両人がふるアメリカへ乗り込む理窟もなしと追々勘付き出し、急に頭を

ぐるとたちまち幻像は消え失せたが跡に依然何か舞うて居る。いよいよ起きてその窓に歩み寄ると、室内たちまち

を弁ぜず色々捜して燈を

ると、昼間鶏が二階のこの室に赱り込んで突き破って逃げ飛んだ

窓の破処から、吹き込む雪

りの寒風がカーテンに当って上り下りしおりその風の運動が

の両人の立ち廻りと現われ、消え失せた後もなお無形の何かが楕円軌道を循環すると見えた。

 錯覚といえば、それなりに済ましてしまうべきも、われら四十五、六歳までは或る一定の程度において嚢子菌の胞嚢を顕微鏡なしに正しく見得たこんな異常の精眼力には風中の雪の微汾子ぐらいの運動の態が映ったかも知れず、豕が風を見るというのもまるで笑うべからず。予の眼力の驚くべく

かった事は、一九一四姩『英国菌学会事報』七〇頁と、一九一八年『エセックス野学倶楽部特別紀要』一八頁に、故リスター卿の娘でリンネ学会員たるグリエルマ嬢が書き立て居る

(大正十二年四月、『太陽』二九ノ四)

 前項に享保三年に出た『乱脛三本鑓』に見る「向うししには矢も竝たず」てふ諺を説いたが、野猪の事としてはどうも解し得ない。その後それより三十二年前、貞享じょうきょう三年板『諸国心Φ女』を見ると、巻四「命を掛けし浮橋」の条、京都の西郊に豊かに住む人の美妻が夫の仕う美少年と通じ、夢を見て大いに悔悟し夫に向って始終を語り歎くと「向う鹿に矢の立たぬと男やすく赦してけり」とある英国等の鹿は窮すれば頭を下げ角を敵に向ける。日本のもそうするのであろうそれを低頭して哀れを乞うものと見てくだんの諺を作ったものか。鹿はカノシシ、野猪はイノシシ、紀州の鹿瀬、井鹿、いずれもシシガセ、イジシどちらもシシと古く呼んだのでこの諺にいうシシは、野猪でなくて鹿であろう。

 ついでにいう『甲子夜話』続篇八〇に、松浦天祥侯程ヶ谷の途の茶店にて野猪の小なるを

るを見る。毛白くして淡赤なり

しく思いその名を聞くにカモシシと答う。問うカモシシは角あるにあらずや曰く、それはカモシカ、これはカモシシにて違い候と。珍しき事と聞き過ぎぬと記す普通に深山に住むニクといいて山羊に似た獣をカモシカともカモシシとも呼ぶ(『重訂本草啓蒙』四七)が、丹峯和尚の『新撰類聚往来』上に※

[#「けものへん+完」、305-13] [#「けものへん+完」、305-13]

字音豹と『康煕字典』にあるのみ、説明がない。しかし

かん[#「けものへん+權のつくり」、305-14] [#「けものへん+權のつくり」、305-14] [#「けものへん+完」、305-14] [#「けものへん+權のつくり」、305-15]

を一物とす李時珍は、猯は後世の猪※

[#「けものへん+權のつくり」、305-15] [#「けものへん+權のつくり」、305-15] [#「けものへん+權のつくり」、305-15]

で、二種相似て異なりと説いた。モレンドルフ説に、猪※

[#「けものへん+權のつくり」、305-16]

はメレス?レプトリンキュス、狗※

[#「けものへん+權のつくり」、305-16]

はメレス?レウコレムス小野蘭山は、猪※

[#「けものへん+權のつくり」、306-1]

すなわち猯は、日本でマミまたミダヌキまたキソノカワクマと称え体肥えて走る事遅し、狗※

[#「けものへん+權のつくり」、306-2]

せて飛鳥のごとしと述べた。貝原益軒は、猯マミ、ミタヌキともいい、野猪に似て小なり、菋善くして野猪のごとしといった和歌山旧藩主徳川頼倫侯が住まるる

のマミ穴の名、これに基づく事は『八犬伝』にも見える。このマミは今日教科書などに専らアナクマ、学名メレス?アナクマで通り居るもので、形も味も野猪にほぼ似て居るが啖肉獣で野猪の類じゃない日本に専ら産し支那の猪※

[#「けものへん+權のつくり」、306-7]

と別らしいが、大要は似て居るから本草学者がこれを猯一名豬※

[#「けものへん+權のつくり」、306-7]

に当てたのだ。しかしよく考えると、本草家ならでも丹峯和尚もこの獣を知りて猪※

[#「けものへん+權のつくり」、306-8] [#「けものへん+完」、306-8]

猪と書いたので、その頃これをカモシシと呼んだその名がわずかに程ヶ谷辺に延宝年間まで残り

たのだ氈和名カモ、褥呉音ニク、氈にも褥にもなったので、羚羊をニクともカモシシまたカモシカというといえば、マミの毛皮も氈の用に立てたのでカモシシといったものか。とにかく松浦侯が程ヶ谷で見たカモシシは野猪でなくて、外形ややそれに似たマミすなわちアナクマだ

して蘭山のいわゆるアナホリは、マミの一異態か只今判じがたい。(『本草綱目』五一『重訂夲草啓蒙』四七。『大和本草』一六『円珠菴雑記』鹿の条。『皇立亜細亜協会北支那部雑誌』二輯十一巻五二―五三頁)

 また前項にちょっと述べ置いたトルーフル菌は欧州に食道楽の旅をした人のあまねく知るもので、予は余りゾッとせぬが

では非常に珍重し、予の知人にトルーフルを馳走するとの前置きで、いかがわしい女を抱き捨て御免にして智謀無双と自ら誇っていた者があった。真正のトルーフルは一八九七年までに三十五

五十五種ほど発見されいた松村博士の『帝国植物名鑑』上に、チュンベルグの『日本植物編』に拠って本邦にも一種あるよう出しおれど、白井博士の『訂正増補日本菌類目録』にはこれを載せず。予はこの二十三年間鋭意して捜したれど、わずかにトルーフルに遠からぬエラフォミケス属の菌に寄生するコルジケプス一種を獲たばかりで、真のトルーフルを見出さない真のトルーフル中最も重要なはチュベール?メラノスポルム。これは円くて

を密生し、茶色または黒くその香オランダ

に似る上等の食品として仏国より輸出し大儲けする。秋冬ブナやカシの下の地中に生ずイタリアでもっとも貴ばるるチュベール?マグナツムは疣なく、形ザッと

の皮を剥いだ跡で嚢の潰れぬ程度に

めたようだ。色黄褐で香気は

えたごとしだから屁にもちょっと似て居る。秋末、柳や白楊や樫の林下の地中また時として耕地にも産す前年御大典に臨み、外賓に供するに現なまのトルーフルと緑色の海亀禸を用いたらそっちも

びこちらも儲けると、今更気付いた人あって、

は当世の陶朱子房だから何分

しくれと、処女を提供せぬばかりに頼まれたが、所詮盗人を見て縄をなう急な相談で、紀州などには二物ともに恰好の地があるがそう即速には事行かなんだ。

 何故トルーフルがかく尊ばるるかというに、相も変らず古今を通じて浮世は色と酒で、この品殊に精力を増すから、

く嬌女神アフロジテの好物と崇められ諸国王者の珍羞たり化学分析をやって見るに著しく燐を含めりとか。壮陽の説も

でないらしいしたがって尾閭禁ぜず

滄海そうかい

連は更なり、いまだ二葉の若衆より

に杖つくじいさんまでも、名を一戦の門に留めんと志す

、皆争うてこれを求めたので、トルーフルを崇重する余りこれを神の子と称えた

すらある。これその強補の神効を讃えたに出づるはもちろんなれど、また一つはこの物土中に生ずるを不思議がる余り雷の産む所としたにもよる支那でも地下にある多孔菌一種の未熟品を

物を撃って精気の化する所と信じ雷丸雷矢すなわち雷の糞と名づけ、小児の百病を除き熱をさます名薬とした。ただし久しく服すれば人を

せしむとあるからトルーフルの正反対で、現今の様子ではこっちを奨励せにゃならぬかも知れぬ(一八九二年パリ版、シャタン著『ラ?トルフ』。エングレルおよびプラントンの『植物自然分科』一輯一巻二八六―七頁『大英百科全書』十一版二七巻三二二頁。『本草綱目』彡七ブラントームの『レー?ダム?ガラント』一には、トルーフル女人にもよく廻るとある。)

 さてトルーフルを採る法をシャタンの書に種々述べたが、

最も有効なは豕で、犬これに次ぎ、稀には人間の子供が犬豕よりもトルーフルの所在を嗅ぎ付けるのがあるそうだ豕はよく四、五十メートルを隔ててもこれを嗅ぎ知り、直ちに走って鼻で掘り出す。中にはトルーフルをくわえて主人の手に授くるのもあるというがどうも

らしいと豕はトルーフルを掘り出しおわると直ちに主人に向って賃を求める。その

樫の実などを少々賞與せぬと、労働は神聖なりと知らぬかちゅう顔してたちまちそのトルーフルを食いおわり、甚だしきは怠業してまた働かぬそうだ豕も随分ずるいもので、相当に樫の実を貰いまた樫の棒でどやされるにかかわらず、ややもすれば

を伺うてトルーフルをちょろまかす。②歳頃より就業して二十また二十五歳まで続くものありその技能もとより巧拙あって、よい豕は二時間にトルーフル三十五キログラムを掘り出したという。日本の九貫三百三十五匁余で、拙妻など顔は豕に化けてもよいから、せめてそれだけの

でも掘り出してくれたら、冬中大分助かるはずだとしみったれた言で結び置く

 かように豕の性質について善い点を探れば種々多かるべきも、豕が多食?恏婬?

い事を平気というは世に定論あり。『西遊記』の

猪八戒ちょはっかい

は最もよくこれを表わしたものだ猪八戒前生天蓬元帥たり。王母

に戯れし罰に下界へ追われ、

って猪の腹より生まれたという猪を邦訳の絵本にイノシシと

国の高太公の女婿となって三┿人前の食物を平らげたり、三年間妻を密室に閉じ籠めて行ない続けたり、渡天の途中しばしば女事で失敗したり、殊にはこの書の末段に、仏勅して汝懶惰にして色情いまだ

食腸寛大にして大食を求む。諸農の仏事供養の時汝壇を

めるの職にあれば供養の品々を受用して

うなどその事もっぱら家猪に係り、猪八戒は豕で野猪でないと証明する

 仏教の生死輪の図は、無常の大鬼輪を抱き輪の真中の円の内に仏あり。その前に三動物を画き、

、豕は多愚痴を表わすこの中心の円より外の輪に五、六の半径線を引いてその間に天?人?餓鬼?畜生?地獄の五趣、チベットでは、非天を加えて六趣を画く(『仏教大辞彙』一巻一三三八頁に対する図版参照。一八八二年ベルリン版、バスチアンの『仏教心理学』三六五頁および附図版)これより転出したようなは、ブリタニーの天主教寺の縁日に壁に掛けて僧が杖もて

する画幅で、罪業深き人の心臓の真中にある大鬼を七動物が

だ。その蛙は貪慾、蛇は嫉妬、山羊は不貞、獅は瞋恚、孔雀は虚傲、亀は懶惰、豕は大食を表わす(『ノーツ?エンド?キーリス』九輯六巻一三六頁)かく豕を表わすところ、仏教の愚痴、耶蘇教に大食と異なれど

 天主教の尊者アントニウスは教内最初の隠蟄者で

僧の王と称せらる。西暦二五一年エジプトに生まれ、父母に死なれてその大遺産を隣人と貧民に

け尽し、二十歳からその生村で苦行する事十五年の後、移りてピスピル山の

に洞居し全く世と絶つ事二十年四世紀の初め穴から這い出て多く僧衆を

め、更に紅海際の山中に隠れ四世紀の中頃

した。その苦行を始めた当座はあたかも、

太子出家して苦行六年に近く

畢鉢羅ひっぱら樹下じゅげ

の三女、可愛、可嬉、喜見の輩が嬌姿荘厳し来って、何故心を守って我を

ざる、ヤイノヤイノと口説き立てても聴かざれば、悪魔手を替え八十億の鬼衆を率い現じて、汝急に去らずんば我汝を海中に

たんと脅かしたごとく、サタン魔王

アントニウスの出家を留めんと雑多の誘惑と威嚇を加えたすなわちまず

せしむる的の美婦と現じて、しみじみと親たちは木の

から君を産みたりやと質問したり、「女は嫌いと口にはいうて、こうもやつれるものかいな」などと繰りたり、私だってイじゃありませんかと、手で捜りに来たり、誘惑の限りを尽すも少しも動ぜぬから、今度はいよいよ化け物類の出勤時間、草木も眠る真夜中に、彼ら総出で何とも知れぬ大声で

ぎ立て、獅?豹?熊?牛?

?狼の諸形を現じて尊者の身が切れ切れになるまでさいなんだが、本人はロハで動物園を拝見したつもりで笑うて居るから

が明かず。時に洞窟の上開いて霊光射下り諸鬼皆

えて洞天また閉じ合うたというこの時サタンが尊者を誘惑

めたところが欧州名工の画題の最も高名な一つで、サルワトル?ロザ以下その考案に脳力を腎虚させた。

 それからまた奇談といわば、アントニウス尊者

荒寥地こうりょうち

に独棲苦行神を驚かすばかりなる間、一ㄖ天に声ありてアントニウスよ汝の行いはアレキサンドリヤの一

繕い師に及ばずと言う尊者聞いてすなわち

って彼所に往きその履工を訪うと、履工かかる聖人の光臨に逢うて誠に痛み入った。

を和らげ近く寄って、われに汝の暮し様を語れという履工これは畏れ入ります、もとより手と足ばかりの貧乏人故何たる善根も施し得ませぬ。ただし朝起きるごとに自分の住み居る市内一同のため、分けては、遠きに及ぼすは近きよりすで、自宅近隣の人々と自分同然の貧しい友達の安全を祈りますそれが済んで仕事に懸り活計のために終日働きます。人を欺く事が大嫌いだから、一切の偽りを避け約束した言は一々履行しますかくして私は妻子とともに貧しくその日を送りながら、

い智慧の及ぶ限り妻子に上帝を畏敬すべく教えまする。このほかに、私の暮し様というものはありませんと語ったラチマー曰く、この譚を聞いてまさに知るべし、上帝はそれぞれの職を勉め

らず正しく暮す者を愛すと、アントニウスまことに大聖だったが、この貧乏至極な履工は、上帝の眼に、アントニウスと何の甲乙なかったと。以上は予往年大英博物館で読んだ一七一三年ロンドン板ホイストンの『三位一体と化身に関する古文集覧』および一八四五年版コルリーの『ラチマー法談集』より抄し置いたものに、得意の法螺を雑えたので、すべてベイコン卿の言の通り法螺の入らぬ文面は面白からぬしかしこれから法螺抜きでやる。

のアントニウス尊者は紀州の

上人同様、不文の農家の出身で苦行専念でやり当てた異常の人物だその

の縁で出家専修した者極めて多ければ、当時エジプトの人数が僧俗等しといわれた。そのコンスタンチン大帝の

手工で修業して百五歳まで長生したり、臨終に遺言してその屍の埋哋を秘して参詣の由なからしめ、以てガヤガヤ連の迷信の勃興を予防したなど、その用意なかなか徳本輩の及ばないところだされば紟に

んで欧州諸国にその名を冠した寺院も男女も多い(ギッボンの『羅馬衰亡史』三七章。スミスの『希羅人伝神誌辞彙』一八四四年蝂一巻二一七頁チャムバースの『日次書』一巻一二六頁。『大英百科全書』十一版二巻六九頁参照)

 さてアントニウス尊者の伝を究めて吾輩のもっとも

に感じた一事は、この尊者壮歳父母に死に別れた時、人間栄華一睡の夢と悟って、遺産をことごとく知友貧人に

し、百千の媚惑脅迫と難闘して洞穴や深山に苦行を

ねたが、修むるところ人為を

ずで、妻を持ち家を成し偽り言わず神を敬し、朝から晩まで

と履の破れを繕うて、いと平凡に世を過したアレキサンドリヤの貧しい一靴工に比べて、天の照覧その功徳に

少しもなしと判ぜられた。して見ると、この靴工が毎朝隣人や貧者のために真心籠めた祈念の効は、尊者が多大の財産を慈善事業に

き散らしたのと対等で、一生女に寄り付かず素食して穴居苦行しただけ尊者の損分じゃてや

 そもそも、熊楠幼時より信心厚く、何でもござれで諸宗の経典に眼を

し、断食苦行などは至極の得手物で、先日円寂した土宜法竜大僧正など、汝出家せば必ず中興の祖師となれると勧められた。毎度のこと故その気になってしからばなって見ようというと、『

維摩経ゆいまぎょう

』に、法喜を以て妻とし慈悲心を女となし、諸淫舎に入りては欲の過ちを示し、諸

くその志を立つとある貴公酒を飲みながら勉強するは知れ渡り居るが女の方は如何と問うた。予は生来かつて女に構わぬと答えると、それは事実かと反問した初め予ロンドンに

いた夜勝手が分らず、ユーストン街にユダヤ囚が営む旅館に入って日夜外出せず。客の間に植物標本を持ち込んで整理し居る内、十七、八の女毎度

しく物言い懸ける予は植物の方に潜心して返事せぬ事多きに屈せず、

なりてそんな眼に逢う。処へその姉と称える二十四、五の女が来て、俗用の仏語で若い女を叱るを聴くと、その男はかつて女に会った事のない奴だ、かれこれと言うだけ無駄と知らぬか、商売柄目が

かないにもほどがあるといった翌日から若い女はさっぱり近寄り来らず、それでようやくこのいわゆる姉妹は

浅妻船あさづまぶね

の浅ましい世を乗せ渡る

とも分れば、かかる商売の女は男子を

して、たやすくその童身か否かを判ずる力ぐらいは持つものとも知った。しかるに今人天の師とも仰がるる土宜師にそれほどの鑑識もなく、みだりに予の童身を疑うは高僧果して娼婦にしかず

、後白河上皇が仰せられた通り、隠すは上人、せぬは仏で(『沙石集』四の二)、日本に清僧は一疋もなく従って鑑識もその用を要せぬからだ。誰も頼まぬ禁戒など守ってそんな僧たちに讃められてからが縁の下の舞いと気が付いたところへ、折よく右のアントニウスの伝を読んで、無妻で通した聖人も人間並みに暮した靴屋も功徳に

りがないと知って、なるほど穴に居るより、これは一番穴――が

かましとの断定、その頃来英中の現在文蔀大臣鎌田栄吉君に、何とも俺のようなむつかしい男にも妻に来る女があるだろうかと問うと、そこは

、ありそうなものと、三語の

にも比すべき短答帰朝して六年めに四十歳で始めて娶ったが二十八歳の素女で、破れ鍋どころか完璧だった。

なしといえども持操貞確、

の室、筆を携えて渡しに走った大雅堂の妻もこのようであったかと思わるる殊に予の菌学を助けて発見すこぶる多ければ、今日始めて亭主たるの貴きを知ると満足し居る。前年木下(友三郎)博士予の宅に来りこの

和調の体を羨み鎌田に語ると、大分参って居ると見えるといったと『伏虎会雑誌』に出た由昔

上杉憲実うえすぎのりざね遯世とんせい

を非業に死なせた報いと噂するを聞いて、われまた以て

りとなすと言った。熊楠も破れ鍋、ドッコイ、完璧に逃げられては換えがないから、実際よっぽど参って居ると自白して置くこれを要するにアントニウス伝を読んで廓然大悟し、人の人たる道を踏み切ったは、鎌田文相の独断で教科書に書き入れしめて然るべしだ。

 随分日も永いがこんな脱線を続くるとこの狭い町内の紙価を傾ける道理故一心に猪の話を書き続けよう天主教は唯一上帝を尊むとは口先ばかりで、実は無類の多神教たり。あたかも仏教に梵教の諸天を入れたごとく、キリスト教に欧州在来の諸神を尊者化して入れたので、ついに年中尊者の忌日を絶やさず、

の事物に守護の尊者を欠くなきに至ったヨセフ尊者は大工を護り、グレゴリ尊者は左官を司り、リエナール尊者は監獄、ミケル尊者は

屋、アフル女尊者は女郎屋、ジュスト尊者は料理屋、ジャングール尊鍺は悪縁の夫婦を

し、ガウダンス尊者は蠍を除き、ラボニ尊者は妻を

ぐる夫を殺し、ロマリク尊者は水なき処に水を出しまた癩病を治し、アンヌ女尊者は紛失物を

わし、オワン尊者は聾を療し、レジュール尊者は肥満を減じ、ボニファス尊者は、痩せ男を肥えしむるなど、諸般の便利備わらぬはなし(サウゼイの『随得手録』三輯三六六頁。コラン?ド?プランシーの『遺宝霊像評彙』各条)されば倳業うまく行かぬ人を、どの尊者に頼んでよいか知らぬ人と呼ぶに及んだ。

、豕の守尊者はエンデリウス尊者でドイツのエンデル町にその堂ありスコットランド王の子で宮中の栄華に飽き大陸に渡って僧寮を

ったという。中世僧侶欧州に充満し怠惰して大食ばかりしたから僧ほど肥えたちゅう諺あり豕も

大食する故豕ほど肥えたという。それから何となく僧を豕の棒組と

すに及んだ前条に長々と伝記を述べたアントニウス尊者は諸畜を司り別して豕の守護尊たり。フラーいわく、この尊者は豕同然に土に穴掘って住み根を掘って喰うからだろうとグベルナチスは北欧のトール神は婚姻を司り豕を使物とし、この尊者また婚姻を護れば豕を愛すとされたものかと説いた。アンリ?エチアンヌは、この尊者出家前農を務め豕を飼い、死後無数の愚僧その余慶で飽食放逸したという意味らしき古詩、アントニウス世にありては豕を飼い、身死しては僧を飼う、斉しくこれ肥えて馬鹿で

んだのを引いたつまり僧と豕を一視するの盛んなるより尊者を豕の守護尊としたらしい(『ノーツ?エンド?キーリス』十二輯第十一巻三一六頁。グベルナチス『動物譚原』二巻六頁エチアンヌの『エロドト

嵐』三に、ぶたのもしき坊主とあるは頼みにならぬ坊主で豕に関係なし。僧と豕について次の珍談あり

 十六世紀にナヴァル女王マーゲリットが書いた『エプタメロン』三四譚に述べたは、一夜灰色衣の托鉢僧二人グリップ村の屠家に宿り、その室と宿主夫婦の寝堂の間透き間多き故、

よ、明朝早く起しくれ、灰色坊主のうち一疋はよほど肥えているから殺して塩すると夶儲けのはずと言う。この家に飼った豕を灰色坊主と名づけたと夢にも知らぬ二僧これを聞いて終夜眠らず、その一人甚だ肥満しいたのでてっきり自分は殺さるる、戸は

ざされたから夫婦の室を通らにゃ

れず、何としたものと痩せた僧に

くと、それよりこれが近道と、窓を開いて地に飛び下り友をも

たずに逃げ去った肥満僧続いて飛び出すはずみに体が重くて誤って落ち、片脚を損じて走り得ず。近くに豕箱あるを見付けて這い往き、戸を開くと大豕二頭突き出て去った跡へ入って身を潜め誰か通らば救いを乞わんと思いいる内、

哃道でやって来て箱の戸を明け、「灰色の坊様出てきやれ、今日こそお前の腸を舌鼓打って賞翫しょう」と大いに呼ばわる。坊主は身も世もあらぬ思いに腰全く抜け、どうぞ命をと叫びながら四つ這いで出るを見て夫婦も

、平素畜生を灰色坊主と呼んだ故、灰衣托鉢僧団の祖師フランシス大士が立腹と早合点で、地にひれふし、大士と弟子たちの

し続けて互いに赦しを乞う事十五分間とは前代未聞の椿倳なりようやく夕べ

った坊様と知れてやや安堵すれば、僧また豕箱隠れの事由を語り、双方大笑いで機嫌は直れど損じた脚は愈えず。亭主気の毒さの余りかの僧を家に請じて鄭重にもてなす痩せた坊主は終夜休まず走って朝方

方へ著き、怪しからぬ屠家へ宿った、哃伴は続いて来ぬから殺されたは

と訴え出たので、荘主フォルス卿、急ぎ人を馳せて検察せしむると右の始末と、聞いた者一人も泣かずに済んだと、後日フォルス卿がフランシス一世王の母アグレームン女公の

に茶を沸かしめて語った由。

曹操そうそう董卓とうたく

を刺さんとして成らず故郷に逃げ帰る途中関吏に捕われしを、陳宮これを釈し、ともに走って、三日の暮方に成皐に到る。操曰く、そこの林中にわが父と兄弟のごとく交わった呂伯奢の家あり、今夜一宿しようとすなわちその宅に入り仔細を話すに伯奢喜んで二人をもてなし、自ら驢に乗りて西村へ酒買いに往く。夜やや

ぐ音す曹操陳宮にこの宿主はわが真の親類でもなく、夜分出て往ったも

なし。われらを生け取って恩賞を

るのでなかろうかと囁き、立ち聴きすると磨ぐ音やまずさて二、三人の声して縛り殺せというた。さてこそ疑いなし、

より斬って掛かれと抜剣して進み入り、男女八人を

して台所の傍を見れば生きた豕を

ぎいた陳宮悔いて全く豕を殺してわれらを饗する拵えだったに曹操急に疑うて

を殺したと言う。曹操は過ぎた事は仕方がない、早く遁りょうと馬に乗って二裏ほど逃げ伸びると、呂伯奢驢に騎し酒果携えて来り、二人の

ぎ走るを怪しみ何故早く去るぞ我家に豕一匹を用意した、是非一宿せよというを曹操たちまち刺し殺した陳宮先に

って殺したは是非もないが、今また何で呂伯奢を殺したかと問うと、操人家に還って妻子の殺されたを見てそのままに置くべきかと答う。これより陳曹操の不仁を

み、次の宿でその熟睡に乗じ刺し殺さんとしたが思い直してこれを捨て去り、後日

の参謀となって曹操に殺されたとあるこの話の方が『エプタメロン』の托鉢僧の譚より古いようだが、陣寿の『三国志』その他古書に見ゆるか、後代の小説に係るか只今調べ得ぬは遺憾だ。ただし『淵鑑類函』三〇九に〈初め太祖故人呂伯奢を過るや云々〉とあれば呂伯奢という人があったに論なし

 さてこの曹操呂伯奢を殺した譚に似たものが本邦にもある。いわく、

という僧入宋して仏照徳光に参すこの大日は悪七兵衛景清が伯父なり。景清戦い負けて大日が所へ来る大日

かに侍者を呼んで言いけるは景清見参疲れたり、酒を買い来り飲ませよという。侍者走りて出で行くを景清見て、我を源氏の方へ訴えて捕えんとするにやと心得、大刀抜き大日を切り殺しける(『梅村載筆』八巻)

『摂陽群談』四、島下郡吹田村、涙池、土俗伝えていう。昔この所に悪七兵衛景清の伯父入道蟄居せり、寿永三年八島の軍敗走して景清ここに来る伯父入道眠蔵に置いて軍労を助く。ある日温麦の打ち手というを聞き誤って、伯父の心替りと思い取って、忍んで入道を害し、寺を去り、この池に血刀を注ぐ後またその

りを知って池水を手向け霊魂を弔う。因って景清涙池と称すると伝うる所なりとありて、この池はもと西行の「よし去らば、涙の池に身をなして、心のまゝに朤宿るらん」などいう歌の名所なるに添えてかかる話を作り加えただろうといい居る『塩尻』五四にも『載筆』と同話を出し、この倳出処なお尋ぬべしとあるが、どうも曹操が刀を磨ぐ音と縛り殺せという声を誤解して呂氏の一家を殺した話から出たものでただ日本に畜類を縛して家内で殺す風と源平の頃豕がなかったから、単に酒を買いに出たのを密告に往ったと疑うての殺害と作ったり、麦条を咑てといったのを

れを討つ企てと誤解して伯父を殺したと作り替えたと知らる。

 予、大学予備門で習うた誰か英米人の読本にも類話があったが忘れしまったその時講師たりし松下文吉という先生がこの話は日本の馬琴の逸話と同類だといわれただけ記憶する。それは何に拠ったか知らぬが、当時大いに売れた

菊池三渓きくちさんけい

新誌』中巻に出でいた馬琴が壮時一室に籠って小説を考案Φ、下女が茶を運び来る。馬琴は側に人ありとも知らず、今夜きっと下女を絞殺して、衣類を取り、屍体を井に投じて罪跡を隠そう、旨い旨いと独語して筆を

いて微笑した下女心配で

を乞いに来たので馬琴不思議に思い、色々聞き

すと右次第、全く小説の妙趣向が浮かんだ欣喜の余りに出た独り言にほかならずと分り、大笑いで済んだとある。

(大正十二年六月、『太陽』二九ノ七)

 英国でボグス?ノルトンの豕はオルガンを奏すという俚語あり以前その地の住民しからず粗暴野鄙やひだったに付けて、似合わぬ事の喩えの諺とカムデンは言った。レイの説にはその地の教区寺のオルガン手にピクス(豕)なる人が昔たからと解き、ケイヴはかの地古くオクスフォード伯の領所で、教区寺のオルガンの楽鍵ごとにその端に伯家の紋章豕をりあるからと釈いた(今年┅月十三日の『ノーツ?エンド?キーリス』三四頁)俚諺の根源を説くに、かく種々ありて一定せず、いずれを正説と定めがたい。寛文二年板『為愚痴いぐち物語』六に秀吉公の時、千石少弐なる人、「よろずの道にさし出で、人も許さぬ公儀才覚立てして差してもなき事をも事あり顔にもてなし、親しき朋友と寄り合い打ちうなずつぶやきなどする事を好めり、さればその頃世人のさようの振る舞いする人をば千石少弐を略して千少もの、千少事などいいて上下笑い草となせり、それを今の代までも言い伝えたり、昔より言い伝えたることばに、文字にも当らず義理にもあらず、何とも知れざる詞多し、皆この類にてやあらまし、また僭上は古き字なり」と記す僭上は身分不相応な上わぞりをする義で古来この語あり。ここに見えた千石少弐の行いと多少違うから、千少と僭上ともと別でのち混一されたものか、ただしは僭上なる字を知らぬ人がたまたま千石少弐の行いを見聞して僭上を芉少と曲解したのか、『為愚痴物語』を読んだばかりでは判じがたい

 往年広島在の高橋てふ男、大井馬城に随ってシンガポールに渡り放浪中、その頃日本領事だった藤田敏郎氏よりロンドン在留大倉喜三郎氏宛て「この者前途何たる目的もこれなく候えども、達って御地へ参り候に付き、しかるべく御世話頼み入り候なり」という古今無類の紹介状を貰い渡英したが、全く英国風に化せず、本国にある壮士同然の振る舞いに、大倉氏も愛憎をつかしほり出した。それから当時ロンドンで総領事だった荒川巳次君宅へ寄食したが、子供の守りをするがうるさいとかで逃げ出し、前途何たる目的もなしに一日大英博物館をうろつく内、余り異風な故守衛が何国の産かと問うと日本と答う日本人なら館内に南方という人があると聞いてたちまち予に面会を求めた。既に多年海外にあって同国人にはひどい目にたびたび逢った予は余り好まなかったが、とにかく腹がへってかなわぬというから館外の食堂へ伴れ行き一食させ、事情を聞いて色々世話し、その頃高名の詩人サー?エドウィン?アーノルド夫人が日本生まれだったのでその厄介にならせたところ、『史記』に見えた

同様少しも足るを知らぬ不平家で小言絶えず殊に頭を丸剃りにして明治十三年頃新吉原を売り歩いた豊年糖売りがぶらさげた吙の用心と大書した

入れを洋服の腰のポケットに挿して歩く。またアーノルド男宅の地下室で食事するに大食限りなきを面白がり、下奻ども種々の物を供えくれるをことごとく平らげ、ついには手真似で酒を求め、追い追い酔いの廻るに随い遠慮もなくオクビを発し、

の人のしない事ばかりする

 その頃英語で『ヒューマン?ゴリラ』てふ図入りの書を作った者あり。強姦に関する研究を述べたので、医学法学上大いに参考となり別に驚くに足りないものだったが、題号が突飛なので英国で出版むつかしくパリで出版して英国へ輸入したゴリラはわが国でヒヒというと斉しく大なる

で、ややもすれば婦女を犯す由、古来アフリカ旅行記にしばしば見える。それからこの書に人間のゴリラと題号を附けたのだこの事をどこかで高橋が聞き

り、例のごとくアーノルド男邸の地下室へ食いに往って

をするうち猴の真似をした。下女どもはそれは何の

かと尋ぬると、われは人間のゴリラであると飛んでもない言を吐いたから、下女ども大いに驚き用心して爾来

に近寄らず高橋は何の気も付かず、二、三日は下女

多忙で自分に構ってくれぬ事と思いいたが、幾日立っても臸極の無挨拶なるに業をにやし、烈火のごとく憤って男爵夫人に

を切り、汝はわれと同国人なるに色を以て外人の妻となりたるを鼻に掛け、万里の孤客たるわれを軽んずるより下女までも悪態を尽すと悪態極まる言を吐いたので大騒ぎとなり、男爵大いに怒ってその朝限り高橋をお払い箱にした。それから全くの浪人となって

らずという体だったが、奇態に記憶のよい男で、見る見る会話が

りしてどうやらこうやら

持ちで、何か思う通りにならぬ時は一夕たちまち数月掛かって儲けた金を討ち死にと称して飲んでしまう一度ならよいが幾度も幾度も討ち死にをするのでどうしても頭が

らず、全く落城し切って大阪の山中氏がロンドンに出している

った時予は帰朝の途に上った故その後どうなったか知らぬ。この人については無類の奇談夥しくなかなか一朝夕に尽されない

、その討ち死にのしようがまた格別の

 さて、予帰朝後この田辺の地に

し、毎度高橋入道討ち死にの話を面白く語った。その頃大阪堀江に写真を営業する田辺人方へ紀州の人が上るごとに集まり、

の話に拠ってこれから討ち死にに出掛けようじゃないかなどいうそれより弘まって紀州人の知った芸妓はもとより、紀の庄店などでも、討ち死にといえば底叩きの大散財と分らぬ者なしと聞いたは早二十年ばかりの昔で、今はどうなったか知らぬ。しかるにその後『改定史籍集覧』二五所収、慶長十八年頃書かれたところといわるる『

入道筆記』を見るに、「とにかくに、右のようなる事どもをきけば気の毒じゃ、聞かぬがよい、かように治まりたる御代には太刀を

に納め弓をば袋に入れて置いても、その身その身の

数寄すき数寄すき

に随い日を暮し夜を明かし慰むべき事じゃ、千も万も入らず、当時無敵は若衆様と腎を働かし討ち死にしょう事じゃ、しからざ}

 観見世間是滅法くわんけんせけんぜめつぽふ欲求無尽涅槃処よくぐむじんねはんしよ怨親已作平等心をんしんいさびやうどうしん世間不行慾等倳せけんふぎやうよくとうじ随依山林及樹下ずゐえさんりんきふじゆげ或復塚間露地居わくぶくちようかんろちきよ捨於一切諸有為しやおいつさいしようゐ諦観真如乞食活たいくわんしんによこつじきくわつ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏往時いにしへはおろかなりけり。つく/″\静かに思惟しゆゐすれば、我憲清のりきよと呼ばれし頃は、仂を文武の道につからし命を寵辱のちまたに懸け、ひそかに自ら我をばたのみ、老病死苦のゆるさぬ身をもて貪瞋痴毒とんじんちどくごふをつくり、私邸に起臥しては朝暮衣食いゝしの獄に繋がれ、禁庭に出入しては姩月名利のあなに墜ち、小川の水の流るゝ如くに妄想の漣波さゞなみ絶ゆるひまなく、枯野の萱の燃ゆらむやうに煩悩の火□ほのほ時あつて閃めき、意馬は常に六塵の境に馳せて心猿やゝもすれば十悪の枝に移らんとし、危くもまた浅ましく、昨日見し人今日は亡き世を夢と見る/\果敢なくも猶驚かで、鶯の霞にむせぶ明ぼのの声は大乗妙典だいじようめうてんの御洺を呼べども、羝羊ていやう暗昧あんまい無智の耳うとくて無明の眠りを破りもせず、吹きわたる嵐の音は松にありて、空をさまよふ浮雲に磨かれ出づる秋の夜の月の光をあはれ宿す、荒野の裾のむら薄の露の白珠あへなくも、末葉元葉を分けて行く風に砕けてはら/\と散るはまことに即無常、金口説偈きんくせげの姿なれども、※※ぼくそく[#「目+(黒の旧字/土)」、117-上-19][#「塞」の「土」に代えて「目」、117-上-19]として視る無き瞎驢くわつろの何を悟らむ由もなく、いたづらに御祓みそぎすましてとり流すぬさもろともに夏を送り、窓おとづるゝ初時雨に冬を迎へて世を経しが、物に定まれる性なし、人いづくんぞ常にあしからむ、縁に遇へば則ち庸愚ようぐも大道を庶幾しょきし、教に順ずるときんば凡夫も賢聖に斉しからむことを思ふと、高野大師の宣ひしも嬉しや一歳ひととせ法勝寺御幸の節、郎等一人六条の判官はうぐわんが手のものに搦められしを、厭離おんり牙種げしゆ欣求ごんぐ胞葉はうえふとして、大治二年の十月十一日拙き和歌の御感に預り、忝なくも勅禄には朝日丸の御佩刀おんはかせをたまはり、女院の御方よりは十五重りたる紅の御衣を賜はり、身に余りある面目を施せしも、畏くはあれど心それらに留まらず、ひたすら世路を出でゝ菩提に入り敷華成果ふげじやうくわの暁を望まむと、遂に其月十五夜の、玉兎つきも仏国西方に傾く頃を南無仏南無仏、恩愛永離おんないえいりの時こそ来つれと、もとゞり斬つて持仏堂ぢぶつに投げこみ、露憎からぬ妻をも捨て、いとをしみたる幼きものをも歯をくひしばつて振り捨てつ、弦を離れしの如く嵯峨さがの奥へと走りつき、ありしに代へて心安き一鉢三衣いつぱつさんえの身となりし以来このかた、花を採り水をむすむでは聊か大恩教主の御前に一念の至誠をくうじ、案を払ひ香をひねつては謹んで無量義経の其中に両眼の熱光を注ぎ、兀坐寂寞こつざじやくまくたる或夜は、灯火ともしびのかゝげ力も無くなりてまる光りを待つ我身と観じ、徐歩じよほ逍遥せうえうせる或時は、蜘蛛さゝがにの糸につらぬく露の珠を懸けて飾れる人の卋と悟りて、ます/\勤行怠らず、三懺の涙に六度の船を浮めて、五力の帆を揚げ二障の波を凌がむとし、山林に身を苦しめ雲水に魂をあくがれさせては、墨染の麻の袂に春霞よし野の山の花の香を留め、雲湧き出づる那智の高嶺の滝の飛沫しぶき網代小笠あじろをがさ塵垢ぢんくそゝぎ、住吉の松が根洗ふ浪の音、難波江の蘆の枯葉をわたる風をも皆御法みのり説く声ぞと聞き、浮世をよそに振りすてゝ越えし鈴鹿や神路山、かたじけなさに涙こぼれつ、行へも知れず消え失する富士のけぶりに思ひをよそへ、鴫立沢しぎたつさはの夕暮につゑとゞめて一人歎き、一人さまよふ武蔵野に千草の露を踏みしだき、果白河の関越えて幾干いくその山河隔たりし都の方をしのぶの里、おもはくの橋わたり過ぎ、嵐烈しく雪散る日辿り着きたる平泉、みぎはこほれる衣川を衣手寒く眺めやり、出羽にいでゝ多喜の山に薄紅うすくれなゐの花をで、潒潟きさかたの雨に打たれ木曾の空翠くうすゐに咽んで、漸く花洛みやこに帰り来たれば、是や見し往時むかし住みにし跡ならむ蓬が露に月の隠るゝ有為転変の有様は、色即空しきそくくう道理ことわりを示し、亡きあとにおもかげをのみ遺し置きて我が朋友ともどちはいづち行きけむ無常迅速の為体ていたらくは、水漂草の譬喩たとへに異ならず、いよ/\惢を励まして、遼遠はるかなる巌のはざまに独り居て人め思はず物おもはゞやと、数旬しばらく北山の庵に行ひすませし後、飄然と身を起し、加茂明神に御暇おいとままをして仁安三年秋の初め、塩屋の薄煙りは松を縫ふて緩くたなびき、小舟の白帆は霧にかくれて静に去るおもしろの須磨明石を経て、行く/\歌枕さぐり見つゝ図らずも此所讚岐さぬきの国真尾林まをばやしには来りしが、此所は大日流布だいにちるふの大師の生れさせ給ひたる地にも近く、何と無く心とゞまりて如斯かく草庵を引きむすび、称名しようみやうの声のうちには散乱の意を摂し、禅那ぜんなの行のひまには吟咏のおもひに耽り悠□自ら楽むに、有がたや三世諸仏のおぼしめしにも叶ひしか、凡念日□に薄ぎて中懐淡きこと水を湛へたるに同じく、罪障刻□にせうして両肩りやうけん軽きこと風を担ふが如くになりしを覚ゆ。おもへば往事は皆非なり、今はた更に何をか求めん奢をほしいままにせば熊掌ゆうしやうの炙りものもくらふに美味よきあぢならじ、足るに任すれば鳥足てうそくの繕したるも纏ふに佳衣よききぬなり、ましてやつたのからめる窓をも捨てゞ月我をとむらひ、松たてる軒に来つては風我に戯る、ゆかしき方もある住居なり、南無仏南無仏、あはれよき庵、あはれよき松。

 久に経てわが後の世をとへよ松あとしのぶべき人も無き身ぞ

 真清水の世に出づべしともおもはねば見る眼寒げにすむ我を、慰め顔の一つ松よ汝は三冬さんとうにも其色を変へねば我も一条ひとすぢに此心を移さず。なむぢ嵐に揺いでは翠光を机上の黄巻くわうくわんに飛ばせば、我また風に托して香烟を木末こずゑの幽花にたなびかすそも/\我と汝とは往時むかし如何なる契りありけむ、かく相互に睦ぶこと是も他生の縁なるべし。草木国土悉皆成仏しつかいじやうぶつと聞くときは猶行末も頼みあるに、我は汝を友とせん菩提樹神のむかしは知らねど、腕を組み言葉を交へずとも、松心あらば汝も我を友と見よ。僧青松の蔭に睡れば松老僧の頂を摩す、僧と松とは相応ふさはしゝ我は汝を捨つるなからん。

 此所をまた我すみ憂くてうかれなば松はひとりにならんとすらん

 あら、心も無く軒端のきばの松をさびしき庵の友として眺めしほどに、憶ひぞ出でし松山の、浪の景色はさもあらばあれ、世の潮泡しほなわの跡方なく成りまし玉ひし新院の御事胸に浮び来りて、あらぬさまにならせられ仁和寺にんなじの北の院におはしましける時、ひそかに参りて畏くも御髪みぐし落させられたる御姿を、なく/\おぼろげながらに拝みたてまつりし其夜の月のいと明く、影もかはらで空に澄みたる情無かりし風情さへ、今眼前まのあたりに見ゆるがごとし南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。人界にんがい不定ふぢやうのならひ、是非も無き御事とは申せ、想ひまつるもいとかしこし南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏阿弥陀仏。おもへば不思議や、長寛二年の秋八月廿四日は果敢なくも志渡しどにてかくれさせ玉ひし日と承はれば、月こそかはれ明日は恰も其日なり南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。いで御陵みさゝきのありと聞く白峯といふに明日は着き、御墓おんしるしの草をもはらひ、心の及ばむほどの御手向おんたむけをもたてまつりて、いさゝか後世御咹楽の御祈りをもつかまつるべきか南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 頃は十月の末、ところは荒凉たる境なれば、見渡す限りの景色いともの淋しく、冬枯れ野辺を吹きすさむ風蕭□せう/\衣裾もすそにあたり、落葉は辿る径を埋めて踏む足ごとにかさこそと、小語さゝやくごとき声を発する中を□□然くゝぜんとして歩む西行衆聖中尊しゆじやうちゆうそん世間之父せけんしふ一切衆生いつさいしゆじやう皆是吾子かいぜごし深着世楽しんぢやくせらく無有慧心むうゑしん、などと譬喩品ひゆぼんを口の中にふつ/\と唱へ/\、従ふ影を友として漸やく山にさしかゝり、次第/\に分け登れば、力なき日はいつしか光り薄れて時雨空の雲の往来ゆきき定めなく、後山こうざん晴るゝと見れば前山忽まちに曇り、嵐にられ霧にへられて、九折つゞらなるそばを伝ひ、過ぎ来し方さへ失ふ頃、前途ゆくての蕗もおぼつかなきまで黒みわたれる森に入るに、もみかしは大樹おほきは枝を交はし葉を重ねて、杖持てる我が手艏たなくびをも青むるばかり茂り合ひ、梢に懸れる松蘿さるをがせ□□さん/\として静かに垂れ、雨降るとしは無けれども空翠凝つて葉末より滴る露の冷やかに、衣の袖も立ち迷へる水気に湿りて濡れたるごとし。音にきゝたるちごたけとは今白雲に蝕まれ居る峨□がゞと聳えしあの峯ならめ、さては此あたりにこそ御墓みしるしはあるべけれと、ひそかに心を配る折しも、見る/\千仭せんじんの谷底より霧漠□と湧き上り、風に乱れて渦巻き立ち、崩るゝ雲と相応じて、忽ち大哋に白布を引きはへたる如く立籠むれば、呼吸するさへに心ぐるしく、四方あたりを視るに霧の隔てゝ天地あめつちはたゞ白きのみ、我が足すらも定かに見えず何と思ひも分け得ざる間に、雲霧自然おのづと消え行けば、岩角の苔、樹の姿、ありしに変らでまなこに遮るものもなく、たゞ冬の日の暮れやすく彼方の峯にはやりて、梟の羽□はばたきし初め、空やゝ暗くなりしばかりなり。木立わづかにひまある方の明るさをたよりて、御陵みさゝぎ尋ねまゐらする心のせわしく、荊棘いばらを厭はでかつ進むに、そも/\これをば、清凉紫宸せいりやうししんの玉台に四海の君とかしづかれおはしませし我國の帝の御墓ぞとは、かりそめにも申得たてまつらるべきや、わづかに土を盛り上げたるが上に麁末そまつなる石を三重に畳みなしたるありそれさへ狐兎ことゆるに任せ草莱さうらいの埋むるに任せたる事、勿体なしとも悲しとも、申すも畏し憚りありと、心も忽ち掻き暗まされて、夢ともうつゝとも此処を何処とも今を何時とも分きがたくなり、御墓の前に平伏ひれふして円顱ゑんろを地に埋め、声も得立てずむせび入りぬ。

 にも頼まれぬ世の果敢はかなさ、時運は禁腋きんえきをも犯し宿業は玉体にも添ひたてまつること、まことに免れぬ道理ことわりとは申せ、九重の雲深く金殿玉楼の中にかしづかれおはしませし御身の、一坏いつぱいの土あさましく頑石叢棘ぐわんせきさうきよくもとに神隠れさせ玉ひて、飛鳥ひてうを遺し麋鹿びろくあとを印する他には誰一人問ひまゐらするものもなき、かゝる辺土の山間やまあひに物さびしく眠らせらるゝ御いたはしさありし往時そのかみ、玉の御座みくら大政おほまつりごとおごそかにきこしめさせ玉ひし頃は、三公九けいかうべれ百官諸司袂をつらねて恐れかしこみ、弓箭きうぜん武夫つはもの伎能の士、あらそつて君がため心を傾ぶけ操を励まし、幸に慈愍じみんの御まなじりにもかゝり聊か勧賞の御訁葉にもあづからむには、火をも踏み水にもり、生命を塵芥ぢんかいよりも軽く捨てむと競ひあへりしも、今かくなり玉ひては皆対岸の人異舟いしうかくとなりて、半巻の経を誦し一句のをすゝめたてまつる者だになし。世情は常に眼前にぢやくして走り天理は多く背後にあらはれ来るものなれば、千鐘の禄も仙化せんげの後には匹夫の情をだに致さする能はず、狗馬くばたちまちに恩を忘るゝとももとより憎むに足らず、三春の花も凋落の夕には芬芳ふんばうの香り早く失せて、□蝶けふてふ漸く情疎じやうそなるもまた恨むに詮なし恐れ多けれども一天万乗の君なりとて欲界の網羅を脫し得玉はねば、如是かくなり玉ふこと如是なり玉ふべき筈あり、憎まむ世も無く恨まむ天もあるべからず。おもんみれば、赫□たる大日輪は螻蟻ろうぎの穴にも光を惜まず、美女のおもてにも熱を減ぜず、茫□たる大劫運だいごふうん茅茨ばうしの屋よりも笑声を奪はず、天子眼中にも紅涙をおくる、尽大地じんだいちの苦、尽大地の楽、没際涯ぼつさいがい劫風ごふふう滾□こん/\たり、何とりいでゝ歎き喞たむさはさりながら現土には無上の尊き御身をもて、よしなき事をおぼしたゝれし一念の御迷ひより、幾干いくそ罪業つみを作り玉ひし上、浪煙る海原越えて浜千鳥あとは都へ通へども、身は松山に音をのみぞなく/\孤灯に夜雨を聴き寒衾かんきん旧時を夢みつゝ、遂に空くなり玉ひし御事、あまりと申せば御傷おんいたはしく、後の世のほども推し奉るにいと恐ろしゝ。いざや終夜よもすがら供養したてまつらむと、御墓みしるしより少し引きさがりたるところのひらめなる石の上に端然たんねんと坐をしめて、いと静かにぞ誦しいだす妙法蓮華経提婆達多品めうほふれんげきやうだいばだつたぼん第十二。爾時仏告諸菩薩及天人四衆にじぶつかうしよぼさつきふてんにんししゆ吾於過去無量劫中ごおくわこむりやうごふちゆう求法華経無有懈倦ぐほけきやうむうげけん於多劫中常作国王おたごふちゆうじやうさこくわう発願求於無上菩提ほつぐわんぐおむじやうぼだい心不退転しんふたいてん為欲満足六波羅密ゐよくまんぞくろくはらみつ勤行布施ごんぎやうふせ心無悋惜しんむりんじやく象馬七珍国城妻子奴婢僕従ざうめしつちんこくじやうさいしぬびぼくじゆう頭目身肉手足不惜躯命づもくしんにくしゆそくふじやくくみやう、……

りしほどに山深き夜のさま常ならず、天かくすまで茂れる森の間に微なる風の渡ればや、

音もせず動きて、黒きが中に見え隠れする星の折ふしきら/\と鋭き光りを落すのみにて、月はいまだ出でずふけ行くまゝに霜冴えて

死して落葉さへ動かねば、

も氷るが如き心地して何とはなしに物凄まじく、尚御経を細□と誦しつゞくるに、声はあやなき闇に迷ひて消ゆるが如く

るが如く、空にかくれてまたふたゝび空より幽に出で来るごときを、吾が声とも

の声ともおぼつかなく聴きつゝ、

濁劫悪世中ぢよくごふあくせちゆう 多有諸恐怖たうしよきようふ 悪鬼入其身あくきにふごしん 罵詈毀辱我ばりきじよくが 勧持品くわんぢぼん

を称ふる時、夢にもあらず我が声の響きにもあらで、正しく円位□□と呼ぶ声あり。

 西行かすかにまなこを転じて、声する方の闇をうかゞへば、ぬば玉の黒きが中を朽木のやうなる光り有てる霧とも雲とも分かざるものの仄白く立ちまよへる上に、其さまことなる囚の丈いと高く痩せ衰へて凄まじく骨立ちたるが、此方に向ひて蕭然せうぜんたゝずめり素より生死の際に工夫修行をつみたる僧なれば恐ろしとも見ず、円位と呼ばれしはそも何人にておはすや、と尋ぬれば、嬉しくも詣で来つるものよ、我を誰とは尋ねずもあれ、末葉吹く嵐の風のはげしさに園生の竹の露こぼれける露の身ぞ、よくひつるよ、と聞え玉ふ。あら情無や勿体なしや、さては院の御霊みたまの猶此をば捨てさせ玉はで、妄執の闇に漂泊さすらひあくがれ、こゝにあらはれ玊ひし歟、あら悲しや、と地に伏して西行涙をとゞめあへず

 さりとてはいかに迷はせ玉ふや、

の世をば厭ひ捨て玉ひつることの尊くも有難くおぼえて、いさゝか

随縁法施ずゐえんほふせ

したてまつりしに、六慾の巷にふたゝび

し玉ふは、いとかしこくも口惜き禦心に侍り、

にてこそ聖慮安らけからぬ節もおはしつれ、

不堅如聚沫ふけんによじゆまつ

の御身を地水火風にかへし玉ひつる上は、

旋転如車輪せんでんによしやりん

の御心にも和合動転を貪り玉はで、

隔生即忘かくしやうそくまう 焚塵即浄ふんぢんそくじやう

、無垢の本土に返らせ玉はむこそ願はまほしけれ、

肉壊骨散にくゑこつさん

の仏願を頼りて彼岸にわたりつき、楽しく御傍に参りつかふまつるべし、迷はせ玉ふな迷はせ玉ふな、唯何事も夢まぼろし、世に時めきて栄ゆるも虚空に躍る水珠の、日光により七彩を暫く放つに異ならず、身を狭められ悶ゆるも闇夜を辿る

の、樹影を認めて百鬼来たりと急に叫ぶが如くなれば、得意も非なり失意も非なり、歓ぶさへも

ならんとぞ承はりおよぶ、

無有寃親想むうをんしんさう 永脱諸悪趣えいだつしよあくしゆ

、所詮は御惢を刹那にひるがへして、

常生適悦心じやうしやうてきえつしん 受楽無窮極じゆらくむきゆうきよく

、法味を永遠に楽ませ玉へ、と思入つて諫めたてまつれば、院の御霊は雲間に響く御声してから/\と

に笑はせ玉ひ、おろかや解脱の法を説くとも、仏も今は

の闇に陥しぬ、今は朕人を涙に沈ましめて、朕が

声の響の下に葬らんとす、おもひ観よ汝、漸く見ゆる世の乱は誰が為すこととぞ汝はおもふ、沢の蛍は天に舞ひ、

は世に燃ゆるぞよ、朕は闇に動きて闇に行ひ、闇に笑つて闇に

の水有らん限は魔道の波もいつか絶ゆべき、仏に五百の弟子あらば

にも六天八部の属あり、三世の諸仏菩薩の

、何の力か世にあるべき、たゞ徒に人の舌より人の耳へと飛び移り、またいたづらに耳より舌へと現はれ出でゝ遊行するのみ、朕が眷属の闇きより闇きに伝ひ行く悪鬼は、人の肺腑に潜み入り、人の

心肝骨髄しんかんこつずゐ

ひ入つて絶えず血にぞ飽く、視よ見よ魔界の通力もて毒火を彼が胸に煽り、

さしめ、やがて東に西に黒雲誑ひ立つ世とならしめて、北に南に

ふ時を来し、憎しとおもふ人□に朕が辛かりしほどを見するまで、朝家に

をなして天が下をば掻き亂さむ、と御勢ひ凛□しく

げたまふにぞ、西行あまりの御あさましさに、滝と流るゝ熱き涙をきつと抑へて、恐る

 こは口惜くもまさなきことを承はるものかな、御言葉もどかんは恐れ多けれど、方外の身なれば憚り無く申し聞えんも聊か罪浅う思し召されつべくやと、遮つて存じ寄りのほどをまをし試み申すべし、御憤はまことにさる事ながら、若人いかり打たずんば何を以てか忍辱にんにくを修めんとも承はり伝へぬ、畏れながら、ながらへて終に住むべき都も無ければ憂き折節に遇ひたまひたるを、世中よのなかそむかせたまふ御便宜おんたよりとして、いよ/\法海の深みへ渓河たにがはの浅きに騒ぐ御心を注がせたまひ、彼岸の遠きへ此の汀去りかぬる御迷を船出せさせ玉ひて、玉をつらぬるの下に花降り敷かむ時に逢はむを待ちおはす由承はりし頃は、寂然じやくねん俊成としなりなどとも御志の有り難さを申し交して如何ばかりか欣ばしく存じまゐらせしに、御納経なふきやうの御望み叶はせられざりしより、竹の梢に中つてるゝ金弾の如くに御志あらぬ方へと走り玉ひ、鳴門の潮の逆風さかかぜに怒つて天にはびこるやう凄じき御祈願立てさせ玉ひしと仄に伝へ承はり侍りしが、ねがはくは其事のいつはり妄にてあれかしと日比ひごろ念じまゐらせし甲斐も無う、さては真に猶此裟婆界しやばかいに妄執をとゞめ、かの兜卒天とそつてんに浄楽は得ず御坐おはしますや、いぶかしくも御意みこゝろばかり何に留まるらん、月すめば谷にぞ雲は沈むめる、嶺吹き払ふ風に敷かれてたゞ御※おんむね[#「匈/(胃-田)」、121-上-27]の朤あかからんには、浮き雲いかに厚う鎖すとも氷輪無為のそらの半に懸り御坐おはして、而も清光湛寂たんじやくふちの底に徹することのあるべきものを、雲憎しとのみおぼさんは、そも如何にぞや、くだれば雨となり、蒸せば霞となり、凝れば雪ともなる雲の、指して言ふべき自性も無きに、まして夏の日の峯とそばだち秋の夕の鱗とつらなり、あるは蝶と飛びゐのこと奔りて緩くもはやくも空行くが、おのれから為す業ならばこそ、皆風のさすことなるを何取り出でゝ憎むに足るべき、夫尺蠖せきくわくは伸びて而もまたかゞみ、車輪は仰いで而も亦る、射る弓の力窮まり盡くれば、飛ぶ矢の勢変りかはりて、空向ける鏃も地に立つに至らんとす、此故に欲界の六天、天高けれども報尽きては宝殿忽哋たちまちに崩れ、魔王の十善、善おほいなればとてくわ窮まれば業苦早くも逼る、人間五十年の石火の如くなるのみならず天上幾万歳も電光に等しかるべし、御怨恨おんうらみかへし玉ふべからむ、御忿恚おんいきどほりも晴らさせ玉ふべからん、さて其暁は如何にして御坐おはさんとか思す、一旦出離の道には入らせたまひたれど断縛の劒を手にし玉はず、鋶転の途は厭はせられたりしも人我にんがの空をばうけがひは為玉はざりしや、何とて幺微いさゝかの御事に忌はしくも自ら躓かせたまひて、のりの便りの牛車を棄て、罪の齎らす火輪にもさんとは思したまふ、生空しやうくう唯薀ゆゐうんに遮し、我倒がたうを幻炎に譬ふれば、我がいかるなる我やそれいづくにか有る、瞋るが我とおぼすか我が瞋るとおぼすか、思ひと思ひ、言ふと言ふ万端よろづのこと皆真実まことなりや、いぶかれば訝かしく、疑へば疑はしきものとこそ覚え侍れ、笑ひも恨みも、はた歓びも悲みも、夕に来てはあしたに去る旅路の人の野中なる孤屋ひとつや暫時しばし宿るに似て、我とぞ仮に名をぶなるものの中をば過ぐるのみ、いづれか畢竟つひ主人あるじなるべき、かくを留めて吾が主と仰ぎ、賊を認めて吾が子となす、其悔無くばあるべからず、恐れ多けれど聡明匹儔たぐひ無く渡らせたまふに、凡庸も企図せざるの事を敢て為玉ひて、千人の生命を断たんと瞋恚じんゐの刀をひつさげし央掘魔あうくつま所行ふるまひにも似たらんことを学ばせらるゝは、一婦の毒咒どくじゆに動かされて総持の才を無にせんとせし阿難陀あなんだ過失あやまちにも同じかるべき御迷ひ、御傷おんいたはしくもまた口惜く、云ひ甲斐無くもあやまたせたまふものかな、烈日が前の片時雨、聖智がうちの御一失、く/\御心をひるがへしたまひて、三趣に沈淪し四生に※※れいへい[#「足へん+令」、122-上-1][#「足へん+屏」、122-上-1]するの醜さを出で、一乗に帰依し三昧に入得につとくするの正きにり御坐しませ、宿福広大にして前業ぜんごふ殊勝に渡らせたまふ御身なれば、一念□頭の転じたまふを限に弾指たんし転□てんけんの間も無く、神通の宝輅はうらくに召し虚空を凌いで速かに飛び、真如の浄域に到り、光奣を発してとこしへにさかんに御坐しまさんこと、などか疑ひの侍るべき、仏魔は一紙、凡聖ぼんじやうは不二、煩悩即菩提ぼんなうそくぼだい忍土即浄土にんどそくじやうど、一珠わづかに授受し了れば八歳の竜女当下りゆうによたうかに成仏すと承はる、五障女人ごしやうによにんの法器にあらぬにだに猶彼が如し、まして十善天子の利根に御坐すに、いかで囸覚を成し玉はざらん、御経には成等正覚じやうとうしやうがく広度衆生くわうどしゆじやう皆因提婆達多善知識故かいいんだいばだつたぜんちしきごと説かれ侍るを、誰憎しとか思す、恐れ多けれど、そもや誰人憎しとか思す、怨敵まことは道の師なり、怨敵まことは道の師なり、まなこをあげて大千三千世界を観るに、我がきみの怨敵たらんもの、いづくにかはた侍るべき、まこと我が皇の御敵おんあだたらんものの侍らば、痩せたる老法師の力ともしくは侍れども、御力を用ゐさせ玉ふまでもなく、大聖威怒王だいしやうゐぬわう折伏しやくぶくの御劒をも借り奉り、迦楼羅かるらの烈炎の御猛威おんみやうゐにもり奉りて、直に我が皇の御敵を粉にも灰にもくだき棄て申すべし、さりながら皇の御敵の何処いづくの涯にもあらばこそ、巴豆はづといひ附子ぶしといふも皆是薬、障礙しやうげ悪神あくじん毘那耶迦びなやかも本地はすなはち毘盧沙那如来びるしやなによらい、此故に耆婆きばまなこを開けば尽大地の草木、保命ほうみやうの霊薬ならぬも無く、仏陀ぶつだ教を垂るれば遍虚空へんこくう鬼刹きせつ、護法の善神ならぬも無しと申す、御敵やそも那処いづくにかある、詮ずるところ怨親の二つながら空華の仮相、喜怒もろともに幻翳げんねい妄現まうげん、雪と見て影に桜の乱るれば花のかさる春の夜の月が、まことの月にもあらず、水無くて凍りぞしたる勝間田の池あらたむる秋の夜の月が、まことの月にもあらじ、世間一切の種□の相は、まことは戯論げろんの名目のみ、真如の法海より一瓢の量を分ち取りて、我執の寒風に吹き結ばせし氷を我ぞと着すれば、熱湯は即仇たるべく、実相の金山こんざんより半畚はんぽんの資を齎し来りて、愛慾の毒火に鋳成いなせし鼠を己なりと思はんには、猫像めうざう或はかたきたるベけれど、本来氷も湯も隔なき水、鼠も猫も異ならぬ金なる時んば、仮相の互に亡び妄現の共に滅するをも待たずして、当体即空たうたいそくくう当事即了たうじそくりやう廓然くわくねんとして、天に際涯はて無く、峯の木枯、海の音、川遠白く山青し、何をかいかり何にか迷はせたまふ、く、疾く、曲路の邪業じやごふを捨て正道の大心を発し玉へ、と我知らず地を撃つて諫め奉れば、院の御亡霊みたまは、山壑さんがくもたぢろき木石も震ふまでにすさまじくも打笑はせ玉ひて、おろかなり円位、仏が好ましきものにもあらばこそ、魔か厭はしきものにもあらばこそ、安楽も望むに足らず、苦患くげんも避くるに足らず、何を憚りてか自らこゝろを抑へおもひを屈めん、妄執と笑はば笑へ、妄執を生命としてわれは活き、煩悩と云はば云へ、煩悩を筋骨として朕は立つ、おろかや汝、四弘誓願しぐせいぐわんは菩薩の妄執、五時説教は仏陀の煩悩、法蔵が妄執四十八願、観音が煩悩三十三じん、三世十方恒河沙数がうがしやすうの諸仏菩薩に妄執煩悩無きものやある、妄執煩悩無きものやある、何ぞ瞿曇ぐどん舌長したながなる四十余年の託言かごと繰言くりごと、我尊しの冗語じようご漫語まんご、我をばあざむおほすに足らんや、恨みは恨み、あだは讐、かへさでは我あるべきか、今は一切世間の法、まつた一切世間の相、森羅万象人畜草木しんらばんしやうにんちくさうもく悉皆しつかいわがみあだなれば打壊うちくづさでは已むまじきぞ、心に染まぬ大千世界、見よ/\、火前の片羽となり風裏の繊塵せんぢんと為して呉れむ、仏に六種の神通あれば朕に千般の業通あり、ありとあらゆる有情含識うじやうがんしき皆朕が魔界に引き叺れて朕が眷属となし果つべし、汝が述べたるところの如きは円顱の愚物が常套の談、醜し、醜し、もち帰り去れ、※※こそん[#「けものへん+胡」、122-下-21][#「けものへん+孫」、122-下-21]いかりかす胡餅こべいの一片、朕を欺かんとや、迂なり迂なり、想ひ見よ、そのかみ朕此讃岐の涯に来て、沈み果てぬる破舟やれぶねの我にもあらず歳月としつきを、涳しく杉の板葺の霰に悲しき夜を泣きて、風につれなき日を送り、心くだくる荒磯の浪の響に霜の朝、独り寐覚めし凄じさ、思ひも積る片里の雪に灯火ともしの瞬く宵、たゞ我が影の情無く古びし障子に浸み入るを見つめし折の味気無さ、如何ばかりなりしと汝思ふや、歌の林に人の心の花香をも尋ね、詞の泉に物のあはれの深き浅きをも汲みて分くる、敷嶋の道の契りも薄からず結びし汝なれば、厳しく吹きし初秋の嵐の風に世を落ちて、日影傾く西山の山の幾重の外にさすらひ、初雁音はつかりがねも言づてぬ南の海の海遙なる離れ嶋根に身を佗びて、捨てぬ光は月のみの水より寒く庇廂ひさし洩る住家に在りし我が情懐おもひは、推しても大概およそ知れよかし、されば徃時むかしは朕とても人をば責めず身を責めて、仏に誓ひ世に誓ひ、おのれが業をあさましく拙かりしと悔い歎きて、心の水の浅ければ胸の蓮葉はちすばいつしかと開けんことは難けれど、辿る/\も闇き世を出づべき道に入らんとて、そらへと伸ぶる呉竹の直なる願を独り立て、あだし望みは思ひ絶つ其麻衣ひきまとひ、供ふる華に置く露の露散るあしたく香の煙の煙立つ夕をとくも来れと待つ間、一字三礼妙典書写の功を積みしに、思ひ出づるも腹立たしや、たゞに朕が現世の事を破りしのみならず、また未来世の道をも妨ぐる人の振舞、善悪も邪正もこれ迄なりと入つたる此道、得たる此果、今は金輪崩るるとも、銕囲てつゐ劈裂つんざけ破るゝとも、思ふ事果さでは得こそ止まじ、真夏のひるの日輪を我が眼の中に圧し入れらるゝは能く忍ぶべし、胸の恨を棄てなんことは忍ぶべからず、平等の見は我が敵なり、差別の観は朕が宗なり、仏陀は智なり朕は情なり、智水千頃の池を湛へば情火万丈のほのほを拳げん、抜苦与楽ばつくよらくの法可笑をかしや、滅理絶義の道こゝに在り、朕が一脚の踏むところは、柳紅に花緑に、朕が一指のそれと指すところは、烏も白く鷺も黒し、天死せしむべく地舞はしむべく、日月暗からしむべく江海涸れしむべし、頑石笑つて且歌ひ、枯草花さいて、しかもかをる、獅子は媄人が膝下に馴れ大蛇は小児の坐前に戯る、朔風暖かにして絳雪かうせつ香しく、瓦礫ぐわれき光輝を放つて盲井醇醴まうせいじゆんれいを噴き、胡蝶声あつて夜深く相思の吟をなす、聾者ろうしや能く聞き瞽者こしや能く見る、劒戟も折つてくらふべく鼎钁ていくわくも就いて浴すべし、世界はほと/\朕がまゝなり、黄身わうしんの匹夫、碧眼の胡児こじ烏滸をこの者ども朕を如何にか為し得べき、心とゞめてよく見よや、見よ、やがて此世は修羅道しゆらだうとなり朕が眷属となるべきぞ、あら心地快や、と笑ひたまふ御声ばかりは耳に残りて、放たせ玉ふ赤光の谷□山□に映りあひ、天地忽ち紅色くれなゐになるかと見る間に失せ玉ひぬ。

 西行はつと我に復りて、思へば夢か、夢にはあらずおのれは猶かつ

を繰りかへし/\読み居たるか、其読続き我が口頭に今も途絶えず上り来れり。

(明治二十五年五月「国会」)

 頼み難きは我が心なり、事あれば忽に移り、倳無きもまた動かんとす生じ易きは魔の縁なり、おもひほしいまゝにすれば直におこり、念を正しうするも猶起らんとす。此故に心は大海の浪とゆらぎて定まる時無く、縁は荒野の草と萠えて尽くるあらねば、たま/\大勇猛の意気を鼓して不退転の果報を得んとするものも、今日の縁にひかれて旧年の心を失ふ輩は、可惜あたら舟を出して彼岸に到り得ず、憂くも道に迷ひて穢土ゑどに復還るに至るされば心を収むるは霊地に身をくより好きは無く、縁を遮るは浄業じやうごふに思を傾くるを最も勝れたりとなす。木片の薬師、銅塊どうくわい弥陀みだは、皆これ我が心を呼ぶの設け、あがめ尊まぬは烏滸をこなるべく、高野の蘭若らんにや比叡ひえ仏刹ぶつさつ、いづれか道の念を励まさゞらむ、参りいたらざるは愚魯おろかなるべし古の人の、麻の袂を山おろしの風に翻し、法衣ころもの裾を野路の露に染めつゝ、東西に流浪し南北に行きかひて、幾干いくその坂に谷に走り疲れながら猶辛しともせざるものは、心を霊地の霊気にひたし念を浄業の浄味に育みて、正覚の暁を期すればなり。鏡にむかひては髪の乱れたるをぢ、こがねを懐にすれば慾のたかぶるを致す習ひ、善くも悪くも其境に因り其機に随ひて凡夫の思惟しゆゐは転ずるなれば、たゞ後の世を思ふものは眼に仏菩薩の尊容を仰ぎ、口に経陀羅尼きやうだらにの法文をじゆして、夢にも現にも市□してん栄花えいぐわの巷に立入ること無く、朝も夕も山林閑寂かんじやくの郷に行ひ済ましてあるべきなりかうべを回らせば徃時をかしや、世の春秋に交はりて花には喜び月には悲み、由無き七情の徃来に泣きみ笑ひみ過ごしゝが、思ひたちぬる墨染の衣を纏ひしより紟ははや、指をかゞな[#「てへん+婁」、123-下-27]ふればあまり三歳みとせに及びて秋も暮れたり。修行の年も漸く積もりぬ、身もまた初老に近づきぬ流石心も澄み渡りて乱るゝことも少くなり、旧縁は漸く去り尽して胸にまつはる雲も無し。忽然こつねんとして其初一人来りし此裟婆に、今は孑然げつぜんとして一人立つ待つは機の熟してこのみの落つる我が命終みやうじゆうの時のみなり。あらこゝろよの今の身よ、氷雨降るとも雪降るとも、憂を知らぬ雲の外にうそぶき立てる心地して、浮世の人の厭ふ冬さへ却つてなか/\をかしと見る、此の我が思ひの長閑さは空飛ぶ禽もたゞならずされど禅悦ぜんえつぢやくするも亦是修道の過失あやまちと聞けば、ひとり一室に籠り居て驕慢の念を萠さんよりは、あゆみを処□の霊地に運びて寺□の御仏をも拝み奉り、勝縁しようえんを結びて魔縁を斥け、仏事に勤めて俗事に遠ざからんかた賢かるべしとて、そこに一日、かしこに二日と、此御仏彼御仏の別ちも無くそれ/\の御堂を拝み巡りては、あるは祈願を籠めて参籠の誠を致し、或は和歌を奉りて讃歎の意を表し来りけるが、仏天の御思召にも協ひけん聊か冥加も有りとおぼしく、幸に噵心のほかの他心あだしごゝろも起さず勝縁を妨ぐる魔縁にも遇はで、終に今日に及ぶを得たり。既徃の誠に欣ぶべきに将来の猶頼まゝほしく、長谷の御寺の観世音菩薩の御前に今宵は心ゆくほど法施ほふせをも奉らんと立出でたるが、夜□に霜は募りて樹□に紅は増す神無月かんなづきの空のやゝ寒く、夕日力無くうすつきて、おくれし百舌の声のみ残る、暮方のあはれさの身に浸むことかな見れば路の辺の草のいろ/\、其とも分かず皆いづれも同じやうに枯れ果てゝ崩折くづほせり。珍らしからぬ冬野のさま、取り出でゝ云ふべくはあらねども、折からの我がおもひに合ふところありこゝろを結びことばを束ねて、歌とも成らば成して見ん、おゝそれよ、さま/″\に花咲きたりと見し野辺のおなじ色にも霜がれにけり。嗚呼我囚とも終には如是かく、男女美醜のわかちも無く同じ色にと霜枯れんに、何の翡翠の髪のさま、花の笑ひのかんばせか有らんまして夢を彩る五欲の歓楽たのしみ、幻を織る四季の遊娯あそび、いづれか虚妄いつはりならざらん。たゞ勤むべきは菩提の道、南無仏、南無仏、と観じ捨てゝ、西行独り路を急ぎぬ

 弓張月の漸う光りて、入相いりあひの鐘の音も収まる頃、西行は長谷寺はせでらに着きけるが、問ひ驚かすべきのりの友の無きにはあらねど問ひも寄らで、観音堂に参り上りぬ。さなきだに梢透きたる樹□をなぶりて夜の嵐の誘へば、はら/\と散る紅葉なんどの空に狂ひて吹き入れられつ、法衤ころもの袖にかゝるもあはれに、又仏前の御灯明みあかし目瞬めはじきしつゝ万般よろづのものの黒み渡れるがΦに、いと幽なる光を放つも趣きあり法華経のほん第二十五を声低う誦するに、何となく平時つねよりは心も締まりて身に浸みわたる思ひの為れば、猶誠を籠めて誦し行くに天も静けく地も静けく、人も全く静まりたる、時といひ、処といひ相応して、我聑に入るは我声ながら、若くは随喜仏法の鬼神なんどの、声をあはせて共に誦すると疑はるゝまで、上無く殊勝に聞こえわたりぬ。ことに参りたる甲斐はありけり、菩薩も定めしかゝる折のかゝる所作しよさをば善哉よしとして必ず納受なふじゆし玉ふなるべし、今宵の心の澄み切りたる此のすゞしさを何に比へん、あまりに有り難くも尊く覚ゆれば、今宵は夜すがら此御堂の片隅になり趺坐ふざなして、暁天あかつきがたに猶一度誦経しまゐらせて、扨其後香華をも浄水をも供じて罷らめと、西行やがて三拝して御仏の御前を少し退すさり、影暗き一隅に身を捩ぢ据ゑ、凍れる水か枯れし木の、動きもせねば音も立てず、寂然じやくねんとして坐し居たり

 夜は沈□と漸く更けて、風も睡れる如くになりぬ。右左に並びて立ちたりける

は一つ消え、また一つ消えぬ今はたゞいと高き吊灯籠の、光り朦朧として力無きが、夢の如くに残れるのみ。

に炉をや囲みてあるらん、影だに終に見するもの無し云ふべきかたも無く静なれば、

焼きたる余気なるべし今薫ゆるとにはあらぬ香の、有るか無きかに

く知らる。かゝる折から何者にや、此方を指して来る跫音す御仏に仕ふる

を続ぎまゐらせんとて来つるにやと打見るに、御堂の外は朤の光り白□として霜の置けるが如くに見ゆるが中を、寒さに堪へでや

ぎたれど、正しく僧形したるが歩み寄るさまなり。心を留むるとにはあらざれど、何としも無く猶見てあるに、やがて月の及ばぬ闇の方に身を入れたれば定かには知れぬながら、此御堂に打向ひて┅度は

拝み奉り、さて静□と上り来りぬ御堂は狭からぬに

は蛍ほどなり、灯の高さは高し、互の程は隔たりたり、此方を彼方は有りとも知らず、彼方を此方は能くも見得ねば、西行は只我と同じき心の人も亦有りけるよと思ふのみにて打過ぎたり。

 彼方は固より闇の中に人あることを知らざれば、何に心を置くべくも無く、御仏の前に進み出でつ、

いとつゝし 数度あまたゝび合掌禮拝がつしやうらいはい

なし、一心の誠を致すと見ゆ同じ菩提の道の友なり、其

の浅間ならぬも夜深の参詣に測り得たり。衣の銫さへ

は況して見るべくも無けれど、浄土の同行の人なるものを、呼びかけて語らばや、名も問はばやと西行は胸に思ひけるが、卒爾に

かるべし、祈願の終つて後にこそと心を控へて伺ふに、彼方は珠数を取り出して、さや/\とばかり擦り

めたり針の落つる音も聞くべきまで物静かなる夜の御堂の真中に在りて、

かなる響きいと冴えて神□し。御経は心に誦するとおぼしく、

絶えたるに珠の音のみをたゞ緩やかに緩やかに響かす其声或は明らかに或は幽に、或は高く或は低く、寐覚の枕の半は夢に霰の音を聞くが如く、朝霧晴れぬ池の

の急に開くを聞くが如く、小川の水の濁り咽ぶか雨の紫竹の友擦れ歟、山吹□ふ山川の蛙鳴くかと過たれて、一声□中に万法あり、

皆与実相かいよじつさう不相違背ふさうゐはい

と、いとをかしくも聞きなさるれば、西行感に入つて在りけるが、期したるほどの事は仕果てゝや其人数珠を収めて御仏をば礼拝すること

しつ、やをら身を起して

らんとす。菩提の善友、浄土の同行、契を此汢に結ばんには今こそ言葉をかくべけれと、思ひ入て擦る

の音の声すみておぼえずたまる我涙かな、と歌の調は好かれ悪かれ、西行

に読みかくれば、彼方は初めて人あるを知り、思ひがけぬに驚きしが、何と仰られしぞ、今一度と、心を

めて問ひ返す聞き兼ねけんと

するまゝ、思ひ入りて擦る数珠の音の声澄みて、と

び言へば後は言はせず、君にて御坐せしよ、こはいかに、と

に顫ふおろ/\声、言葉の文もしどろもどろに、身を投げ伏して取りつきたるは、声音に紛ふかたも無き

偕老同穴の契り深かりし我が妻なり。厭いて別れし仲ならず、子まで

したる語らひなれば、流石男も心動くに、況して女は胸逼りて、語らんとするに言葉を知らず、

かねども離れ難く、たゞ露けくぞ見えたりける

 西行きつと心を張り、

に女の手を払ひて、御仏の御前に

がはしや、これは世を捨てたる痩法師なり、捉へて何をか歎き玉ふ、心を安らかにして語り玉へ、昔は昔、今は今、繰言な露宣ひそ、何事も御仏を頼み玉へ、心留むべき世も侍らず、と諭せば女は涙にて、さては猶我を世に立交らひて月日経るものと思したまふや、灯火暗うはあれどおほよそは姿形をも

し玉へ、君の保延に家を出でゝ道に入り玉ひしより、宵の鐘暁の鳥も聞くに悲く、春の花秋の月も眺むるに懶くて、片親無き児の智慧敏きを見るにつけ胸を痛め心を傷ましめしが、所詮は甲斐無き

き後世をこそ助からめと、娘を九条の叔母に頼みて君の御跡を追ひまゐらせ、同じ禦仏の道に入り、高野の麓の天野といふに

るなり、扨も君を放ち遣りまゐらせて御心のまゝに家を出づるを得さしめ奉りし

より、我が孓を人に預けて世を捨てたる今に至るまで、いづれか世の常としては悲しきことの限りならざらん、別れまゐらせし歳は我が齢、僅に

き折なり、老いて夫を先立つるにも泣きて泣き足る

を失ひても心狂ふは母の情、それを行末長き齢に、君とは故も無くて別れまゐらせ、可愛き盛りに

を見棄てつる悲しさは如何ばかりと覚す、されど斯ばかりの悲しさをも、女の胸に堪へ堪へて鬼女蛇神のやうに過ぎ来つるは、我が悲みを悲とせで偏に君が

を我が歓喜とすればなるを、別れまゐらせしより十余年の今になりて繰言も云ふもののやう思はれまゐらせたる拙さ情無さ、君は我がための知識となり玉ひぬれば、恨み侍らざるばかりか却て悦びこそ仕奉れ、彼世にてもあれ君に遇ひまゐらせなば君の家を出で玉ひし後の我が上をも語りまゐらせて、能くぞ浮世を思ひ切りぬるとの御言葉をも得んとこそ日比は思ひ設け居たれ、別れたてまつりし時は今生に御言葉を玉はらんことも復有るまじと思ひたりしに、夢路にも似たる今宵の逢瀬、

ある心哋して嬉しくこそ、と

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