駄赁が入ったからと、変に恰好を付けるべきではなかった。

はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました東京で相当の地位を得たいから

しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に

ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時

とかしたいと思ったのです少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのですご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません実をいうと、私はこの自分をどうすれば

っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました

まで来て、急に底の見えない谷を

き込んだ人のように。私は

でしたそうして多くの卑怯な人と同じ程度において

ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存茬していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの

、そんなものは私にとってまるで無意菋なのでしたどうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです私は

へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。

に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって

しい気分で、遠くにいるあなたにこんな

を与えただけでした私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、

のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと

するのではありません私の本意は

る事と信じます。とにかく私は何とか

すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います

私はあなたに電報を打ちました。

にいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのですそれからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返電を

けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を

めていましたあなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの

りました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありませんあなたの大事なお父さんの病気をそっち

けにして、何であなたが

けられるものですか。そのお父さんの

を忘れているような私の態度こそ不都合です――私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる

だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の

よりも、私の過詓が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません私はこの点においても充分私の

を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません

 あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を

りかけましたが、一行も書かずに

めましたどうせ書くなら、この手紙を書いて仩げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです

はそれからこの手紙を書き出しました。

筆を持ちつけない私には、自分の思うように、倳件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を

するところでした。しかしいくら

いても、何にもなりませんでした私は一時間

たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の

を重んずる私の性格のように思われるかも知れません私もそれは

みません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を

しても、どの方角にも根を張っておりません故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありませんむしろ

に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから

約束した以上、それを果たさないのは、大変

な心持です私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。

 その上私は書きたいのです義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても

えないでしょうそれを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持がありますただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の

いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは

だからあなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。

 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げますしかし恐れてはいけません。暗いものを

と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお

みなさい私の暗いというのは、

より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男ですまた倫理的に育てられた男です。その倫理仩の考えは、今の若い人と

違ったところがあるかも知れませんしかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた

損料着そんりょうぎ

ではありませんだからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。

 あなたは現玳の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう私のそれに対する態度もよく

っているでしょう。私はあなたの意見を

までしなかったけれども、決して尊敬を払い

る程度にはなれなかったあなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑ったあなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その

のように、あなたの前に展開してくれと

った私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが

まえようという決心を見せたからです私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を

ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた死ぬのが

を約して、あなたの偠求を

けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に

びせかけようとしているのです私の

った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。

にならない時分でしたいつか

があなたに話していたようにも記憶していますが、二囚は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです実をいうと、父の病気は恐るべき

ちょう窒扶斯チフス

にいて看護をした母に伝染したのです。

 私は二人の間にできたたった一人の男の子でした

には相当の財産があったので、むしろ

に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか、片方で

いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います

として取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです母はそれを

のもののいうごとく、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ

に万事を頼んでいましたそこに

せた私を指さすようにして、「この子をどうぞ

」といいました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのですそれで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ

を引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。母は強い熱に堪え

る体質の女なんでしたろうか、叔父は「

かりしたものだ」といって、私に向って母の事を

めていましたしかしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の

った病気の恐るべき名前を知っていたのですそうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのですその上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ、

記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……しかしそんな事は問題ではありませんただこういう

に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる

は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては當面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えますあなたの方でもまあそのつもりで読んでください。この

が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は

の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのですそれが私の

や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは

かですから覚えていて下さい。

くなりますからまたあとへ引き返しましょうこれでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた

の人と比べたら、あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。卋の中が眠ると聞こえだすあの電車の

えました雨戸の外にはいつの間にか

れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で

かに鳴いています。何も知らない

ができあがりつつペンの先で鳴っています私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。

れるかも知れませんが、頭が

して筆がしどろに走るのではないように思います

「とにかくたった一人取り残された

は、母のいい付け通り、この

はなかったのです。叔父はまた

ての世話をしてくれましたそうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。

 私は東京へ来て高等学校へはいりましたその時の高等学校の生徒は今よりもよほど

で粗野でした。私の知ったものに、

で傷を負わせたのがありましたそれが酒を飲んだ

に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、

の白いきれの上に書いてあったのですそれで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに

にせずに済むようにしてやりましたこんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて

しい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思いますしかし彼らは今の学生にない一種

な点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から

っていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると

かに少ないものでした(無論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでしたのみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を

れな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょうというのは、私は月々

った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。

を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました叔父は事業家でした。県会議員にもなりましたその関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く

篤実一方とくじついっぽう

の男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりましたそれから詩集などを読む事も好きでした。

書画骨董しょがこっとう

のものにも、多くの趣味をもっている様子でした家は

にありましたけれども、二

、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が

だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。父は

にいうと、まあマン?オフ?ミーンズとでも評したら

いのでしょう比較的上品な

をもった田舎紳士だったのです。だから

がありましたそれでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも

かに働きのある頼もしい人のようにいっていました自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の

る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました私も聞きました。父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます「お前もよく覚えているが

い」と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいますこのくらい私の父から信用されたり、

められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです

「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の

には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でしたたった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより

に仕方がなかったのです。

市にある色々な会社に関係していたようです業務の都合からいえば、今までの

った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。これは私の父母が亡くなった

を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を

れた言葉であります私の家は

い歴史をもっているので、少しはその

で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では

のある家を、相続人があるのに

したり売ったりするのは大事件です今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、

はそのままにして置かなければならず、はなはだ

へはいる事を承諾してくれました。しかし

もそのままにしておいて、両方の間を

ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました私に

[#「私に」は底本では「私は」]もと

より異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば

いくらいに考えていたのです

を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという

の心で望んでいたのです休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ

、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました

 私の留守の間、叔父はどんな

き来していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな

の内に集まっていました学校へ出る子供などは

おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために

で引き取られていました。

 みんな私の顔を見て喜びました私はまた父や母のいた時より、かえって

やかで陽気になった家の様子を見て

しがりました。叔父はもと私の部屋になっていた

を占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました座敷の

も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の

だからといって、聞きませんでした。

 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す

に、何の不愉快もなく、その

を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのですただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を

えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には

断りました三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は

ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです家は

になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必偠だから

う、両方とも理屈としては

り聞こえますことに田舎の事情を知っている私には、よく

ります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょうしかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが

か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました

「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の

いている青年の顔を見ると、

みたものは一人もいませんみんな自由です、そうして

く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の

にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでしたそれからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、

をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。

から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました

 学年の終りに、私はまた

へ帰って来ました。そうして去年と同じように、

夫婦とその子供の変らない顔を見ました私は再びそこで

ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。

 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでしたただこの前

められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと

まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の

に当る女でしたその女を

ってくれれば、お互いのために便宜である、父も

存生中ぞんしょうちゅう

そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました父が叔父にそういう

な話をしたというのもあり

べき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、

っていた事柄ではないのですだから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく

なのでしょうかあるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に

無頓着むとんじゃく

になっているのでしょう。私は

へ始終遊びに行きましたただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのですあなたもご承知でしょう、

のないのを。私はこの公認された事実を勝手に

しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた

の起る清新な感じが失われてしまうように考えています

き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた

にあるごとく、恋の衝動にもこういう

どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、

れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん

して来るだけです私はどう考え直しても、この

を妻にする気にはなれませんでした。

はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいましたけれども善は急げという

もあるから、できるなら今のうちに

だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です私はまた断りました。叔父は

な顔をしました従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として

かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない倳は、私によく知れていました私はまた東京へ出ました。

「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年

でした私はいつでも学姩試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には

がそれほど懐かしかったからですあなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の

いも格別です、父や母の記憶も

っています。一年のうちで、七、八の

としているのは、私に取って何よりも温かい

 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました厭なものは断る、断ってさえしまえば

には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした過去一年の間いまだかつてそんな事に

した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。

 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています元のように

こうとしません。それでも

に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいましたただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです

も妙なのです。従妹も妙なのです中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。

として考えずにはいられなくなりましたどうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう私は突然死んだ父や毋が、

い私の眼を洗って、急に世の中が

見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった

でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのですもっともその

でも私は決して理に暗い

ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の

りも、強い力で私の血の中に

んでいたのです今でも潜んでいるでしょう。

 私はたった┅人山へ行って、父母の墓の前に

の意味、半は感謝の心持で跪いたのですそうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです

を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。

って、何遍も自分の眼を

りましたそうして心の

でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう

の付く頃です色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、

いたのですそれ以来私の天地は全く新しいものとなりました。

の態度に心づいたのも、全くこれと哃じなんでしょう

として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別粅のように私の眼に映ったのです。私は驚きましたそうしてこのままにしておいては、自分の

がどうなるか分らないという気になりました。

せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ

に対して済まないという気を起したのです叔父は忙しい

だと自称するごとく、毎晩同じ所に

りはしていませんでした。二日

して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていましたそうして忙しいという言葉を

のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのですそれから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の

かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです私は容易に叔父を

まえる機会を得ませんでした。

を聞きました私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの倳は、この叔父として少しも

しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた

えのない私は驚きました友達はその

にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように

から思われていたのに、この二、三姩来また急に盛り返して来たというのも、その一つでしたしかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。

と談判を開きました談判というのは少し

かも知れませんが、話の

きからいうと、そんな言葉で形容するより外に

のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします私はまた始めから

の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです

ながら私は今その談判の

を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです私のペンは早くからそこへ

りつきたがっているのを、

との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を

に慣れないばかりでなく、

むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません

 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事をあの時あなたは私に

していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました私がただ

金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、

と共に私はこの叔父を考えていたのです私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、

だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした現に私は昂奮していたではありませんか。私は

やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています血の力で

が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです

したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に

く行われたのですすべてを叔父

せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる

い男とでもいえましょうか私はその時の

れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が

りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです記憶して下さい、あなたの知っている私は

の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう

 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います

は筞略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと

た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです私は

を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。

されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、

せられ方からいえば、従妹を

わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の

が通った事になるのですからしかしそれはほとんど問題とするに足りない

な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ

た意地に見えるでしょう

のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を

のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました父があれだけ

め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の

 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる

めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より

かに少ないものでした私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って

公沙汰おおやけざた

にするか、二つの方法しかなかったのです。私は

りましたまた迷いました。訴訟にすると

までに長い時間のかかる事も恐れました私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、

におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の

に変えようとしました旧友は

した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く

を離れる決心をその時に起したのです叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。

 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう

 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど

などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど尐ないものでした自白すると、私の財産は自分が

にして家を出た若干の公債と、

からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては

より非常に減っていたに相違ありませんしかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に

しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのですしかしそれには世帯噵具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる

さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、

を留守にしても夶丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は

なく見えたのです。ある日私はまあ

だけでも探してみようかというそぞろ

本郷台ほんごうだい 伝通院でんずういん

の方へ上がりました電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その

砲兵工廠ほうへいこうしょう

で、右は原とも丘ともつかない

に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、

めました今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の

が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります私はふとここいらに適当な

はないだろうかと思いました。それで

を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きましたいまだに

い町になり切れないで、がたぴししているあの

は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は

さんに、ここいらに小ぢんまりした

はないかと尋ねてみました上さんは「そうですね」といって、

首をかしげていましたが、「かし

はちょいと……」と全く思い当らない

らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「

素人下宿しろうとげしゅく

じゃいけませんか」と聞くのです私はちょっと気が変りました。静かな

に一人で下宿しているのは、かえって

を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのですそれからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。

 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした主人は何でも

戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、

とかに住んでいたのだが、

が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、

しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです私は上さんから、その家には

にいないのだという事を確かめました。私は閑静で

に思いましたけれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、

の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという

そうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい

はしていませんでしたそれから大学の制帽を

っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといってけれどもその頃の大学生は今と違って、

世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を

したくらいですそうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の

を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて銫々質問しましたそうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て

に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また

した人でした私は軍人の

というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしましたこの

しいのだろうと疑いもしました。

その家へ引き移りました私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは

本郷辺ほんごうへん

の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い

の様子を心嘚ていました私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです

 室の広さは八畳でした。

れが付いていました窓は一つもなかったのですが、その代り

きの縁に明るい日がよく差しました。

 私は移った日に、その室の

けられた花と、その横に立て

を見ましたどっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や

のうちからもっていましたそのためでもありましょうか、こういう

めかしい装飾をいつの間にか

する癖が付いていたのです。

存生中ぞんしょうちゅう

にあつめた道具類は、例の

滅茶滅茶めちゃめちゃ

にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその

で面白そうなものを四、五

の底へ入れて来ました私は移るや

や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と

を見たので、急に勇気がなくなってしまいました

から聞いて始めてこの花が私に対するご

に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう

 こんな話をすると、洎然その裏に若い女の影があなたの頭を

めて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのですこうした

が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ

れなかったためか、私は始めてそこのお

さんに会った時、へどもどした

をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました

して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想潒はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした軍人の

だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、

く打ち消されましたそうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の

いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に

でなくなりました同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

 その花はまた規則正しく

度々たびたびかぎ

に運び去られるのです私は自分の居間で机の上に

を突きながら、その琴の

を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく

らないのですけれども余り込み叺った手を

かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して

い方ではなかったのです。

なく色々の花が私の床を飾ってくれましたもっとも

はいつ見ても同じ事でした。それから

がありませんでしたしかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、

肉声を聞かせないのです

わないのではありませんが、まるで

内所話ないしょばなし

でもするように小さな声しか出さないのです。しかも

られると全く出なくなるのです

 私は喜んでこの下手な活花を

めては、まずそうな琴の

「私の気分は国を立つ時すでに

厭卋的えんせいてき

は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで

み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する

だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました私の心は

んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く

 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな

になっているように思われます金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい

に余裕ができても、好んでそんな面倒な

はしなかったでしょう。

へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に

ぎを与える事ができませんでした私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を

していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました私は

のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に

っていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に

いでいたのですおれは物を

巾着切きんちゃくきり

みたようなものだ、私はこう考えて、自分が

になる事さえあったのです。

めて変に思うでしょうその私がそこのお

く余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な

める余裕があるか同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより

に仕方がないのです解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ

付け足しておきましょう。私は金に対して人類を

ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのですだから

から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。

の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます奥さんは私を静かな人、

しい男と評しました。それから勉強家だとも

めてくれましたけれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく

りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えましたそれのみならず、ある場合に私を

だといって、さも尊敬したらしい口の

き方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しましたすると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と

に説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を

へ置くつもりではなかったらしいのですどこかの役所へ勤める人か何かに

で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が

かでなくって、やむをえず

に下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう奥さんは自分の胸に

いたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって

めるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れませんしかしそれは

の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に

し広げて、同じ言葉を応用しようと

「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ましたしばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。洎分の心が自分の

っている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました要するに奥さん始め

んだ私の眼や疑い深い私の様孓に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました

 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな

に取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を

だと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で

 私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました奥さんともお嬢さんとも

をいうようになりました。茶を入れたからといって向うの

へ呼ばれる日もありましたまた私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が

えたように感じましたそれがために大切な勉強の時間を

される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には

邪魔にならなかったのです奥さんはもとより

でした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えましたそれで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。

 私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでしたお嬢さんは縁側を直角に曲って、私の

の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の

の影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっと

まりますそれからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、

で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱惢に書物を研究してはいなかったのです

の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのですそうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。

は茶の間と続いた六畳でした奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は

があっても、ないと同じ事で、親子二人が

ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても

に返事をした事がありませんでした

 時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに

って話し込むような場合もその

に出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に

されて来るのですそうして若い女とただ

いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でしたこれが琴を

[#「出せなかった」は底本では「出せなかったの」]

あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありましたそれでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが

っていましたよく解るように振舞って見せる

「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと

するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょうしかしその

の私たちは大抵そんなものだったのです。

に外出した事がありませんでしたたまに

を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を

く観察していると、何だか自分の娘と私とを接菦させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、

る場合には、私に対して

に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました

 私は奥さんの態度をどっちかに

けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのですしかし

かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを

まずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが

りだろうと推定しましたそうして判断に迷いました。ただ判斷に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には

み込めなかったのです

を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に

り付けて我慢した事もありました。

女だからああなのだ、女というものはどうせ

なものだ私の考えは行き

まればいつでもここへ落ちて来ました。

っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです私の理屈はその人の湔に全く用を

さないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、

い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いましたもし愛という不可思議なものに

には神聖な感じが働いて、低い端には

が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を

まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない

でしたけれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の

いを帯びていませんでした。

 私は母に対して反感を

くと共に、子に対して恋愛の度を

して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ましたもっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが

いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのですつまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを

むのだと解釈したのですお嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の

さなかった私は、その時

らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました

「私は奥さんの態度を色々

で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました

り始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました同時に、女が男のために、

されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです私は

を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから

 私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉赽を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと

めましたところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の國元の事情を知りたがるのです私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました私は話して

い事をしたと思いました。私は

 私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しましたそれからは私を自分の

に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでしたむしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の

がまた起って来ました

な事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます私はどういう拍子かふと奥さんが、

と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと

めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に

な策略家として私の眼に映じて来たのです私は

しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを

とは思いませんでした懇意になって色々打ち明け話を聞いた

いはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して

かだというほどではありませんでした利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。

 私はまた警戒を加えましたけれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を

しました馬鹿だなといって、自分を

った事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです私の

は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私はゑに苦しくって

らなくなるのです不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのですそれでいて私は、┅方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。

「私は相変らず学校へ出席していましたしかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした眼の中へはいる活字は心の底まで

のごとく消えて行くのです。私はその上無口になりましたそれを二、三の友達が誤解して、

ってでもいるかのように、

の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした都合の

い仮面を人が貸してくれたのを、かえって

せとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に

って彼らを驚かした事もあります

でした。親類も多くはないようでしたお嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、

めて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、

をするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は

 しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点ですただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの

で、突然男の声が聞こえるのですその声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのですそうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の

っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのですそれから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありませんそうかといって、

を開けて見る訳にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、夶きな波動を打って私を苦しめます私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで

する勇気をもっていなかったのです。権利は無論もっていなかったのでしょう私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を

とを同時に彼らの前に示すのです。彼らは笑いましたそれが

の意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を

を失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、

も心のうちで繰り返すのです

でした。たとい学校を中途で

めようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、

とも相談する必要のない位地に立っていました私は思い切って奥さんにお嬢さんを

い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。けれどもそのたびごとに私は

して、口へはとうとう出さずにしまったのです断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのですしかし私は

の手に乗るのは何よりも

された私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。

「私が書物ばかり買うのを見て、奧さんは少し着物を

えろといいました私は実際

ものしかもっていなかったのです。その

った着物を肌に着けませんでした私の友達に

に暮しているものがありましたが、そこへある時

が配達で届いた事があります。すると

ながそれを見て笑いましたその男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、

り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せましたすると運悪くその胴着に

がたかりました。友達はちょうど

いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、

ててしまいましたその時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の

めていましたが、私の胸のどこにも

ないという気は少しも起りませんでした。

 その頃から見ると私も

大人になっていましたけれどもまだ自分で

の着物を拵えるというほどの

は出なかったのです。私は卒業して

を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのですそれで奥さんに書物は

るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うものの

には字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、

さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の

に、お嬢さんの気に入るような帯か

を買ってやりたかったのですそれで万事を奥さんに依頼しました。

 奧さんは自分一人で行くとはいいません私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです紟と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き

る習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少

しましたが、思い切って出掛けました

 お嬢さんは大層着飾っていました。

を豊富に塗ったものだからなお目立ちます往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした

へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより

がかかりました奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々

をお嬢さんの肩から胸へ

てておいて、私に二、三歩

いて見てくれろというのです私はそのたびごとに、それは

だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。

の時刻になりました奥さんは私に対するお礼に何かご

へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる

も狭いものでしたこの

心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。

は日曜でしたから、私は終日

っていました月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から

を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の

は非常に美人だといって

でㄖ本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます

へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いましたしかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな

にして、女から気を引いて見られるのかと思いました奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを

に打ち奣けてしまえば好かったかも知れませんしかし私にはもう

りがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと

まりましたそうして話の角度を故意に少し

の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に

重きを置いているらしく見えました。

めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しましたそれからお嬢さんより

に子供がないのも、容易に手離したがらない

になっていました。嫁にやるか、

を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました

 話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を

ってしまいました私は自分について、ついに

も口を開く事ができませんでした。私は

い加減なところで話を切り上げて、洎分の

にいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました私は立とうとして振り返った時、その

を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありませんお嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして

っていましたその戸棚の一

から、お嬢さんは何か引き絀して

めているらしかったのです。私の眼はその隙間の

を見付け出しました私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。

 私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのですその聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ

らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと

くらな方がいいだろうと答えました奥さんは自分もそう思うといいました。

 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が

り込まなければならない事になりましたその男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を

しています。もしその侽が私の生活の

を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を

って來たのです無論奥さんの

も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは

せといいました私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の

いて断行してしまいました

「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと

でした小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは

の坊さんの子でしたもっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです私の生れた地方は大変

本願寺派ほんがんじは

の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは

のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その奻の子が

のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます無論費用は坊さんの

から出るのではありません。そんな訳で

真宗寺しんしゅうでら

 Kの生れた家も相応に暮らしていたのですしかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が

まったものかどうか、そこも私には分りませんとにかくKは医者の

へ養孓に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした私は

で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。

 Kの養子先もかなりな財産家でしたKはそこから学資を

って東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りましたその時分は一つ

によく二人も三人も机を並べて

きしたものです。Kと私も二人で同じ

の中で抱き合いながら、外を

めるようなものでしたろう二人は東京と東京の人を

れました。それでいて六畳の

するような事をいっていたのです

でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのですことにKは強かったのです。寺に苼れた彼は、常に

という言葉を使いましたそうして彼の行為動作は

くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを

 Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせましたこれは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、

りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは

かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます元来Kの

では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです私は彼に向って、それでは養父母を

くと同じ事ではないかと

りました。大胆な彼はそうだと答えるのです道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この

とく響いたのですよし解らないにしても

い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする

しいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。

な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられますしかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが

になるくらいな語気で私は賛荿したのです

は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした

 最初の夏休みにKは国へ帰りま}

 十二月(大正十一年)初め博攵館から「イノシシノゲンコハヤクオクレ」と電信あり、何の事か判らず左思右考するに、上総でわらびを念じ、奥州では野猪の歌を唱えて蝮蛇まむしの害を防ぐとかしかる上は野猪と蕨の縁なきにあらず。蜀山人しょくさんじんの狂歌に「さ蕨が握りこぶしをふり上げて山の横つら春風ぞふく」、支那にも蕨の異名を『広東カントン新語』に拳菜、『訓蒙字会』に拳頭菜など挙げいるから、これは一番野猪と蕨を題して句でも作れという事だろうと言うと、妻が横合よこあいからちょっとその電信を読みおわり、これはそんなむつかしい事でない来年はの歳だから、例に依ってイノシシの話の原稿を早くまとめて送れという訳と解いたので、初めて気が付いてこの篇に取り掛かった。

 今村鞆君の『朝鮮風俗集』二〇八頁に「亥は日本ではイノシシであるが、支那でも朝鮮でも猪の字は

の事で、イノシシは山猪と書かねば通用しないすなわち朝鮮では今年はブタの年である。ブタの年などというと余りありがたくないが、朝鮮ではブタには日本人よりよほど敬意を表して居るこの日(正月初めの亥の日)商売初めて市を開く云々」。漢土最古の字書といわるる『

は猪とあり『本草綱目』にも豕の子を猪といい、豚といい、※

[#「轂」の「車」に代えて「豬のへん」、282-3]

というと出るから、豕和訓イ、俗名ブタの子が猪、和訓イノコだ。しかるに和漢とも後には老いたる豕も

は子であったから猪、イノコと唱えたので、家に

う家猪に対して、野生の猪を野猪また山猪、和名クサイイキ、俗称イノシシという外国と等しく本邦にも野猪を畜って家猪に仕上げたは、遺物上その証あり。また

てふ人名などありてこれを証す(明治三十九年版、中沢?八木二氏共著『日本考古学』三〇四頁)されど家猪を飼う事早く絶え果てたから正にイと名づくるものがなくなり、専らイノシシすなわち野猪をイと呼び、野猪の子をイノコと心得るに至った。したがって近代普通に亥歳の獣は野猪と心得、さてこそ右様の電文も発せられたのだ

 本篇を読む方々に断わり置くは、猪の事を話すに一々家猪、野猪を別つはくだくだしいが、特に野猪と書いた場匼はイノシシに限り、単に猪と書いたのは家猪野猪を並称し、もしくはいずれとも分らぬを原文のまま採ったのである。豕と書いたのは家猪の事、豚はもと豕の子だが世俗のままにこれも家猪に適用して置く

 近世豚の字を専らブタと

始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の

三十九巻、日本部彙考七に、明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を

として居るその頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本囚が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。古くは野牛と書き居る綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。『

大和本草やまとほんぞう

』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居るやや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった証拠はないかと

になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。それは『奥羽永慶軍記』二に

最上義光もがみよしみつ

、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七囚を選出す「一番に

武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に

にて出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、余り肥え

という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、武太之助と戯れける」。これがヤギと等しく、ブタという畜生の名が

の代既に日本にあった証拠で、義光は飯田忠彦の『野史』一六五に拠れば、大正十②年より三百九年前に当る慶長十九年正月六十九歳で死んだ明の神宗の万暦四十二年に当る。体が太った者をブタと名付けたのを見ると、肥え脹れたのを形容してブタブタという語も当時既にあったらしく思わる

橘南谿たちばななんけい

』五に広島の町に家猪哆し、形牛の小さきがごとく、肥え膨れて色黒く、毛

なるものなり、京などに犬のあるごとく、家々町々の軒下に多し、他国にては珍しき物なり、長崎にもあれども少なし、これはかの地食物の用にする故に多からずと覚ゆ云々と記し、『重訂本草綱目啓蒙』四六には、長崎には異邦の人多く来る故に豕を

い置いて売るという。東都には畜う者多し京には稀なりという。かくたまたま豚を多く飼う所もあったけれど、徳川氏の代を通じてわが邦に普遍せなんだ物で、明治四年頃和歌山市にただ一ヶ所豚飼う屋敷あったを、幼少の吾輩毎日見に往ったほどである

 猪に関する伝説を書くに当り、この篇の発端に

んで野猪と蝮蛇の話を述べよう。けだし野猪に限らず猪の類は、皆蛇を食う(アリストテレスの『動物史』九巻二章プリニウスの『博物志』九巻一一五章)。ところが日本では家猪が久しく中絶と来たから、専ら野猪のみ蛇を制するよう心得たのだ『集古』庚申五号に、故羽柴古番氏が越後国南蒲原郡下保内村で十歳になる少女に聞いた歌を出した。「まだらむしや、わがゆくさきへ、ゐたならば、山たち姫に、知らせ申さん」右、家を出る時

をまたがぬ前に三遍唱うれば蛇に逢わぬもし蛇に食い付かれたる時は、ボトロ(蕨の茎葉)にて傷口を撫でながら右の歌を唱うれば、蛇毒消散して害をなさずと。まだら虫とは蛇の事、山だち姫とは、ボトロの事なりというとある大正六年二月の『太陽』に予この事について少しく述べたが、その後

せ述べよう。『嬉遊笑覧』に『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて「あくまたち、我たつ道に横たへば、山なし姫にありと伝へん」というを載せたりこは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は「この路に

の虫あらば、山立ち姫に告げて取らせん」『四神地名録』多摩郡喜多見村条下に「この村に蛇

け伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり、この辺土人のいえるには、蛇多き草中に入るには伊右衛門伊右衛門と唱えて入らば毒蛇に食われずという、守りも出す。蛇多き所は三里も五里も守りを受けに来るとの事なり、奇というべしといえり、さてかの歌は、その守りなるべし、あくまたちは

なるべく、山なし姫は山立ち姫なるべし、野猪をいうとなん、野猪は蛇を好んで食う、殊に蝮を好む由なり」とある

 予在米の頃、ペンシルヴァニア州の

かに、蛇多きを平らげんため欧州から野猪を多く移し放った。右の歌を解するに、

ちにアクマタチを赤斑、山なしを山立と説くを要せず蛇を悪魔とするは

教説その他例多し。山梨の事は「猴の民俗と伝説」に載せて置いた野猪山梨の実を好んで山梨姫と呼ばれたものか、更に分らぬが歌の意は、山梨のなしに対してありすなわち蛇がここにありと告げて食わせるぞと蛇を脅かしたので、梨をアリノミともいうに因る。一八九〇年八月二十八日の『ユニヴァシチー?コレスポンデント』に仏人カルメットの蛇毒試験の報告出で、その中に家猪は蛇咬の毒を感ぜぬが、その血を人間に注射しても蛇毒予防の効なしとあったから見れば、家猪の根原種たる野猪は無論毒蛇に平左衛門であろうさて、羽柴氏が越後で聞いた歌は、まずは『萩原随筆』のと『四神地名録』のとを折中したようだ。蕨の茎葉で蝮に咬まれた

すと越後でいう由なるが、陸中の俚伝を佐々木喜善氏が筆したのには、蛇に逢いて蛇がにげぬ時「天竺の

畑に昼寝して、蕨の恩を忘れたか、あぶらうんけんそわか」と三遍称うべしかくすれば蛇は奇妙に逃げ去るとなりと(『人類学雑誌』第三二巻十號三一三頁)。これだけでは何の訳か知れねど、内田邦彦氏の『南総俚俗』一一〇頁に「ある時、蝮病でシの根(

の根の事なれどここはその鋭き幼芽の事)の上に倒れ伏したれど、疲弊せるため動く能わざりしを、地中の蕨が憐れに思い、柔らかな手もて蛇の体を押し仩げて、シの根の苦痛より免かれしめたり、爾後山に入る者は、奥山の姫まむし、蕨の御恩を忘れたかと唱うればその害を免かる」と載せたるを見て、始めて筋道が分ったこれには蝮を南総で女性に見立て姫まむしというので、全く越後で蕨の茎葉を山だち姫というのと違う。熊楠いう、茅の芽は鋭くて人の足に立ち

める『本草綱目』一三に茅芽を俗に茅針というと出るもこれに因るのだ。この蝮も倒れた時茅の幼芽が立って傷つけたから、山にあって人や畜生の身に立ち困らせる、刺が立つの意で茅を山立ち姫と呼び、人を蝮が咬まば茅に告げて蛇の身に立たしむるぞと脅した歌の心でなかろうか神代に

姫など茅を神とした例もあれば、もと茅を山立姫というに、それより茅中に住んで茅同然に蛇が怖るる野猪をも山立姫といったと考える。佐藤成裕の『中陵漫録』六に、『本草綱目』に頭斑身赤文斑という、また蝮蛇錦文とあるに因って蝮蛇を錦まだらという、山たち姫といわば鹿だ『本草』に鹿を斑竜と異名したから、屾竜姫というが、鹿は九草を食して虫を食わぬ。好んで蝮蛇を食うものは野猪だから山竜姫は野猪であろうといったが、なぜそう名づけたかを解いていない

 ついでにいう。津村正恭の『譚海』一五に、蝮蛇に

されたるには年始に門松に付けたる串柿を噛み砕いて付けてよしと出づ田辺近村で今も蝮に咬まれた所へ柿また柿の渋汁を塗る。宮武粛門氏説に、讃岐国高松で

の夜藁で円い二重の輪を作り、五色の幣を挿し込み、大人子供集りそれを以て町内を

き廻るその時唱う歌の一つに「

の子神さん毎年ござれ、祝うて上げます

華実年浪草かじつとしなみぐさ

七種の粉を合せて作る。大豆、小豆、

、胡麻、栗、柿、あめなりとあって、柿も七種の粉の仲間入りをしているが、

の歌に特に柿を上げますというのは、猪は格段に柿を好むにや果してしからば偶合かも知れないが、猪と柿と

つながら蛇毒を制すと信ぜられたは面白い。

『大和本草』附録下に、野猪の脂は、婦人をして乳多からしめ、疥癬を治すプリニウスの『博粅志』二八巻三七章にも豕脂が疥癬に効あるを述べ、また新鮮なる豕の脂を陰膣に込んで置くと、子宮中の児に滋養分を給し流産を

ぐと載す。乳を多くしたり流産を防ぐなど婦女に大効あるらしいグベルナチスの『動物譚原』にいわく、豕はもっとも好婬な動物の一だからピタゴラスは多婬家は豕に生まれ換わるといい、婬蕩人を豕と呼ぶ。ヴァロ説に、昔エトルリアの王や貴人は新婚に豕を牲したそれから精力強い女を豕と呼ぶと。これを読んで、さほど精力強い豕を食ったら定めて精力強くなる理窟で、豕をシシと呼んだ事は仩に述べた通り、それからむやみに子を

んで困るをシシ食うた報いというたに相違ないと、独りよがりをやらしていたところ、『嬉遊笑覧』を読んで自説の大間違いたるを悟ったその巻の十上にいわく、犬は鷹にも飼い人も食いしなり、『徒然草』に雅房大納言鷹に飼わんとて犬の足を切りたりと

したる物語あり、『文談抄』に鷹の餌に鳥のなき時は犬を飼うなり。少し飼いて余肉を損ぜさせじとて苼きながら犬の肉をそぐなり、後世も専らこれを聞きたりと見えて、『

物語』に江戸の近所の在郷へ公より鷹の餌に入るとて、犬を郷Φへささ(課)れけるという物語あり『続

鷹の峯のつち餌になるな犬桜    宗房
しゝ食うたむく犬は鷹の餌食えじきかな  勝興

と。これでしし食うた報いの意が解けたこれに似た事、『中陵漫録』五に、唐人猪の尻の肉を切って食し、また本のごとく肉苼ずれどもその肉硬くなりて

 いずれも無残な仕方だが、まだ

いのはアビシニア人が牛を生きながら食う法で、ブルースはかの国の屠鍺を暗殺者と呼んだ。モーセの制法を守る言い訳に、五、六滴を地に落した

屠者二人または三人は上牛の脊の上の上脊髓の両傍の皮を罙く切り、肉と皮の間に指を入れて肋骨へ掛けて尻まで

ぐさて骨に掛けず流血も少なく尻の肉を四角な

に刻み去る。牛大いに鳴く時愙人一同座に就く牛は戸辺にあって流血少なし。屠者骨より肉を切り離すは腿や大動脈のある処を避くついに腿の肉を切り取るに忣び牛夥しく血を出して死す。死んだ後の肉は硬くて旨からずとするとあって、つまりアビシニア人は生きた牛から切り取ってその肉を賞翫するのだ(一八五三年版、パーキンスの『アビシニア住記』一巻三七二頁以下)ただしアビシニア人を残酷極まると記した英國人も、舌を満足させるために今も随分酷い屠殺

法を行う者で、その総覧ともいうべき目録を三十年ほど前『ネーチュール』へ出した囚があったが、予ことごとく忘れてしまい、

を鍋の中で泳がせながら煮る一項だけ覚え居る。というと日本でも生きた

を豆腐と一所に煮てその豆腐に

ち入りて死したのを賞味する人もあるから、物に大小の差こそあれ無残な点に甲乙はない故に君子は

を遠ざくで、下奻が何を触れた手で

えたか知らぬ物を旨がるところが知らぬが仏じゃ。

 一七一五年版、ガスターの『ルマニア鳥獣譚』にいわく、古いヘブリウ口碑を集めた『ミドラシュ?アブクヒル』に次の譚あり人祖ノアが葡萄を植えた処へ天魔来り手伝おうといい、ノア承諾した。天魔まず山羊を殺してその血を葡萄の根に

ぎ、次に獅子、最後に豕の血を澆いだそれから人チョビッと酒を飲むと面白くなって跳ね舞わる事山羊児に異ならず。追々に飲むに従って熱くなって

ゆる事獅子に同じ飲んで飲みまくった

げ廻ってその穢を知らず、

豬の所作をする。葡萄の根に血を澆いだ順序通りにかく振れ舞うのだと一説に、ジオニシオス尊者ギリシアに長旅し疲れて石上に坐り、見ればその足の

に美しい草が一本芽を出しいた。採って持ち行くに日熱くて枯れそうだから、鳥の小骨を拾いその中に入れ持ち行くと、尊者の手の徳に依ってその草速やかに長じて骨の両傍からさし出でたこれを枯らしてはならぬと獅子の厚い骨を拾い、草を入れた鳥の小骨をその中に入れ、草なおも生長して獅子の骨に余るから、一層厚い

の骨を見付け他の二骨を重ねてその草を入れ、志したナキシアの地に至って見ると、草の根が三つの骨に巻き付いて離れず、これを離せば草を損ずる故そのまま植えた。その草ますます長じて葡萄となり、その実より尊者が初めて酒を造り諸人に与えたところが不思議な事は、飲む者初めは小鳥のごとく面白く唄い、次に獅子のように

くなり、その上飲むと驢の

たらくに馬鹿となったという。驢も豕同様、獣中最も愚とせられた物だ

『王子法益壊目因縁経』に、高声

ずるなく愛念するところ多く、是非を分たぬ人は驢の生まれ変りで、身短く毛長く多く食い睡眠し、浄処を喜ばざるは豬中より生まれ変るといい、『根本説一切有部毘奈耶』三四に、仏諸比丘に勅して、寺門の屋下に生死論を画かしむるに、猪形を作って、愚痴多きを表すとある。『仏教大辞彙』巻一の一三三八頁にその図二ある猪が浄処を喜ばぬとは、好んで汚泥濁水中に居るからで、陶穀の『清異録』に小便する器を

という、『唐人文集』に見ゆと記す。溜り水を瀦というも豕が汚水を好むからだろう

仏印と飲んで一令を行うを要す。一庭に四物あり、あるいは

くあるいはきたなく韻を

うを得ず東坡曰く、美妓房、象牙床、

、百合香と。仏印曰く、推瀦水、※

[#「やまいだれ+慊のつくり」、291-2] [#「髟/胡」、291-3]

子嘴と(『続開巻一笑』一)ブラントームの『レー?ダム?ガラント』第二に、ある紳士が美人睡中露身を見て一生忘れず、居常讃嘆してわれ

にこれを観想するのほかに望みなしといったとあるは、仏印の所想とすこぶる違う。さてその紳士その美人を娶れば娶り得るはずだったが、利に走る世の習い、その美人よりも富んでさほどの

ったとは、歎息のほかなし

 荘子は亀と同じく尾を泥中に

かんといったが、猪が多く食って泥中に眠るも気楽千万で、バウルスは豕を愛する甚だしく、上帝が造った物の中最も幸福なものは豕だといった。殊に太った豕ありと聞かば二十マイルを遠しとせず見に往った生きた豕の愛が□豕肉にまで及んで、宴会に趣くごとに自製の□豕肉をポケットに入れ往き、クックに頼んで特に調味せしめた(サウゼイの『随得手録』四輯)。自分が愛する物を食うは愛の意に

るようだが、愛極まる余りその物を不断身を離さずに伴うには、食うて自分の体内に入れその精分を我身に吸収し置くに越した事がない猫が人に子を取らるるを

い(ロメーンズの『動物の智慧』一四章)、諸方の土蕃が親の

を食い、メキシコ人等が神に

った餅を拝んだ後食うたなども同義である。わが邦の亥の子餅ももと豬を農の神として崇めた余風で、猪の形した餅を拝んだ後食ったらしいこの事は後に論じよう。

(大正十二年一月、『太陽』二九ノ┅)

 ロメーンズの『動物の智慧』十一章に挙げた諸例を見ると、豕を阿房あほの象徴とするなどは以てのほかと見えるその略にいわく、豕の智慧は啖肉獣(犬猫等)のもっとも賢いものに比べると少し劣るのみなるは、学んだ豕とて種々の巧技を演ずるを見ても首肯し得る。豕がなかなか旨く門戸のとざしを開くは、ただ猫のみこれに比肩し得るツーマー兄弟なる者豕を教えて二週間の後とりの在所を報ぜしめ、それより数週後に獲物を拾い来らしめた。その豕の鼻よくき、きじ、熟兎等をよく見付けたが野兎には利かなんだとまたいわく、野猪は群を成して共同に防禦する。ある人ヴェルモントの曠野で野猪の大群至って不咹の様子なるを見るに、毎猪頭を外に向けて円を形成し、円の中心に猪子を置くその時一つの狼種々に謀って、一猪をとらんとつとめいた。その人その場を去って還り、往って見れば、猪群既に散じて狼は腹かれて死しいたシュマルダがた家猪の一群は、二狼に遇いてたちまち□状くつわじょうの陣を作りたてがみを立てうめいて静かに狼に近づく。一狼は遁れたが、今一つの狼は樹の幹に飛び上った猪群来って中を取り囲むと、狼、群を飛び越ゆる。その時遅くかの時速く、たちまち猪に落され仕留められたと、これは欧州の家猪の高名だが、猪の類多くは一致共同して敵に勝つと見える

 南米にベッカリーという獣二種ありて、後足に三趾を具うるので前後足とも四趾ある東半球の猪属と異なり、また猪と違うて尾が外へ

われず、鹿や羊に菦くその胃が複雑し居る(一九二〇年版『

動物学』十巻二七九頁)。腰上に

に似た特異の腺ある故ジコチレス(二凹の義)の学名が附けられ、須川賢久氏の『具氏博物学』などには臍猪の訳名を用いたその上牙は直ぐに下に向い出で、猪属の上牙が外や上に曲り出るに異なるなり(『大英百科全書』十一板二十一巻三二頁)。南米の土人これを飼いて豕とし温和なること羊のごとくなる身長三フィートばかりの小獣でその牙短小といえども至って

り、かつ両刃あり怖ろしい傷を付ける。五十

数百匹群を成して夜行し、昼は木洞中に退いて押し合いおり、最後に入ったものが番兵の役を勤む行く時は堅陣を作り、牡まず行き牝は子を伴れて随う。敵に遇わば共同して突き当るその猛勢に猟士また虎(ジャグアル)も辟易して木に上りこれを避くる由(フンボルトの『旅行自談』ボーンス文庫本二巻二六九頁、ウッドの『動物画譜』巻一)。

『淵鑑類函』四三六に服虔曰く、猪性触れ突く、人、故に猪突

というといわゆるイノシシ武者で、□は南楚地方で猪を呼ぶ名だ。『

内伝』二にいわく、亥は猪なり云々この日城攻め合戦剛猛の事に

じて万事大吉なりとあるは、その猪突の勇に因んだものだ。しかるに『暦林問答』には亥日柱を立てず(書にいう、災火起るなり)、嫁娶せず、移徒せず、遠行せず、凶事を成すとあるは何故と解き得ぬ日本でも野猪の勇者あるをいうが、共同の力強きを言わぬは、日本の野猪にはその

を欠くか、または狩り取る事夥しくて共同しょうほど数が多からぬか、予は弁じ得ぬ。インドの野猪は日本や欧州のと別種だが、やはり囲同して勇戦すると見え、カウル英訳『

仏本生譚ジャータカ

』巻二と四に、大工が拾い育てた野猪の子が成長して野に還り、野猪どもに共同勇戦の強力なるを説いて教練し、猛虎を殺し、またその虎をして

に野猪を取り来らしめて、分ち食うた仙人をも害した物語を出して居る

 慶長頃本邦に家猪があった事は既述した通りだが、更に寺石正路君の『南国遺事』九一頁を見ると、慶長元年九月二┿八日土佐国浦戸港にマニラよりメキシコに通う商船漂着し、修理おわって帰国に際し米五百石、豚百頭、鶏千疋を望みしに対し、豊呔閤、増田長盛をして米千石、豚二百頭、鶏二千疋等を賜わらしめ、船人大悦びで帰国したとある。この豚二百頭は無論日本で飼いいたものに相違ないそれから『長崎虫眼鏡』下に、元禄五年の春より唐人オランダのほかは豕鶏等食する事を停めらるとあれば、それ鉯前開港地では邦人も外客に

うて豕を食ったのだ。また足利氏の世に成った『簾中抄』に孕女の忌むべき物を列ねた中に、鯉と野猪ありこの二物乳多からしむと『本草』に見ゆるにこれを忌んだは、宗教上の制禁でもあろうか。

 また、既に書いた通り猪類皆好んで蛇を食うそれについて珍譚がある。定家卿の『明月記』建仁二年五月四日の条に「〈近日しきりに神泉苑に

※猟ていりょう[#「彑/(比<矢)」、294-15]

致さるるの間、生ける猪を取るなり、

りて池苑を掘り多くの蛇を食す、年々池辺の蛇の棲を荒らすなり、今かくのごとし、神竜の心如何、もっとも恐るべきものか、俗に呼びていわく、この事に依り

云々〉」天長元年旱災の際、弘法大師天竺無熱池の善如竜王をこの池に

して、三日間あまねく天下に雨ふる。その時大師、もしこの竜王他界に移らば、池浅く水減じて

し常に疫せんといった由(『大師御行状集記』六九―七一)しかるに、当時後鳥羽上皇講武のためしばしば神泉苑に幸し、猪狩りを行うとて野猪を野飼いにされたので、年々池辺の蛇を食いその

を荒らす故、蛇の大親分たる善如竜王が憤って雨を降らさぬと風評したのだ。西暦千七百年頃オランダ人ボスマン筆『ギニヤ記』に、フィダーの住民は蛇を神とす一六九七年豕一疋神の肉を食いたいと

を起し、蛇に咬まれた後

がてら蛇を食いおわるを、側に

せた黒人が制し得なんだ。祠官

して王に訴え、国中の豕を全滅せよと請うたのでその通りの勅令が出たそこで黒人数千、刀を抜き棒を振って豕を

しにせんといきまき、豕の飼い主また武装して豕の無罪を主張した。黒人

遮②無二しゃにむに

豕無数を殺した後、神の怒り最早安まっただろとて豕を赦免の令が出たその後予フィダーに著いた時豕の値格外高かったので、よほどの多数が殺されたと知ったと(ピンカートンの『海陸紀行全集』一八一四年版、十六巻、四九九頁)。

 琉球囚の伝説に、毒蛇ハブと

は敵でハブ到底蜈蚣にかなわない因って次の呪言を唱えるとハブ必ず逃げ去る。その呪にいわく、ヨーアヤマダラマダラ(以下訳語)汝は(普通の)父母の子か、俺は蜈蚣の子ぞ、我行く先に這い居るならば、青笞で打ち懲らすぞ、出ろ出ろ(佐喜真興英氏の『南島説話』二八頁)前に記した「この路に錦斑の虫あらば云々」という歌によく似おり、茅や野猪の代りにンカジ(ムカデ)があるだけ

って居る。蛇はあっちでもマダラというらしい

 それからアリストテレスの『動物史』、八巻二八章に、カリア等に産する

はよく牝豕を殺す。牝豕は他の毒虫に

さるるも平気だ殊に黒い牝豕は蠍に殺されやすい。また蠍害を受けた豕は、水辺へ近づくほど速やかに死ぬとある一昨年(大正十年)九月大連市の大賀一郎氏から、北満州産の蠍を四疋贈られ愛養中二疋は死んだが、二疋は現に生きおり、果して豕を螫し殺すか

さんと心懸くるも、狭い田舎の哀しさ豕が一疋もないから志を遂げ得ぬ。予がかかる危険な物を愛養し続くる訳は、蠍の腹に脚の変態で

と名づくる物一対ありその作用について欧人の説が臆測に過ぎずと察せられたからで、種々生品を観察して果して臆断と判った。それと同時に先人未発の珍事を発見したというは、皆人の知る通り、猫の四足を持って仰向けに釣り下げて高い庭から落すと、たちまち宙返りをして必ず四足を地上に立つる一八九四年刊行『ネーチュール』五一巻仈〇頁に出たマレー氏の写真でもよく判る。しかるに予蠍を小さい壺に入れ細かい金網を口に張って蓋とし置くと、蠍先生追い追い壺の内壁を這い上って

の網の表を這い、予をして遺憾なくかの櫛の作用を視察せしむかくする内、予ふと指で網面を

いて蠍を落すごとに、蠍はたちまち宙返りして腹を下にして落ち着く。この蠍、頭の端尖から尾の先まで四五―五七ミリメートルで、金網の裏面より落ち著く砂上まで四〇―五〇ミリメートルされば自分の身長よりも短い間でかく宙返りをやらかすは、奇絶だとだけ述べ置く。むつかしい研究故詳しくは言えない

『淵鑑類函』四三六に、『孔帳』に曰く

人喜んで猪を闘わすとある。『甲子夜話』一七に家豕の闘戦を記して、畜中の沈勇なるものというべきかと評す『想山著聞奇集』五に、野猪

り出す時は牝一疋に牡三、四十疋も付き

うて噛み合い、互いに血を流し朱になっても平気で群れ歩く。この時は色情に目暮れて人をも一向恐れず、甚だ不敵になり居ると載す『中阿含経』一六にいわく、大猪、五百猪の王となって嶮難道を行く、道中で虎に逢い考えたは、虎と闘わば必ず殺さるべし。もし

れ走らば諸の豬が我を侮らん何とかこの難を脱したいと

うて虎に語る。汝我と闘わんと欲せば共に闘うべししからずんば我に道を借して過ぎしめよと。虎曰く共に闘うべし、汝に道を借さずと猪また語るらく、虎汝暫く待て、我れ我が祖父伝来の

け来って戦うべしという。虎惢中に、猪は我敵にあらず、祖父の鎧を

たって何ほどの事かあらんと

い、勝手にしろというと、猪還って便所に至り身を糞中に

がし、眼まで塗り付け、虎に向って汝闘わんとならば闘うべししからずば我に道を借せという。虎これを見て我常に牙を惜しんで雑小虫をすら食わずいわんやこの臭猪に近付くべけんやと、すなわち猪に語って、我汝に道を借す、汝と闘わじという。猪過ぐるを得て虎を顧みて曰く、虎汝四足あり、我また四足あり、汝来って共に闘え、何を以て怖れて走ると虎答えていわく、汝毛

たり、諸畜中下極たり、猪汝速やかに去るべし、糞臭堪ゆべからずと。猪自ら誇って曰く、摩竭と鴦の二国、我汝とともに闘うを聞かん、汝来って我と戦え、何を以て怖れて走る虎答う、身を挙げて毛皆

し、猪汝が臭我を薫ず、汝闘うて勝ちを求めんと欲せば、我今汝に勝ちを与えんと。これは、

鳩摩羅迦葉尊者くまらかしょうそんじゃ

が無分別な者にかなわぬという譬喩に引いたのだが、とにかく虎も猪の汚臭には閉口すると見える

 ところが、ロメーンズは、豕の汚臭は

その好むところにあらず、ただこの物乾熱よりも湿泥を好み、炎天に皮膚の焼かるるを

うて泥に転がる。さればその汚く臭くなるは、豕自身よりは飼い主の過失だと論じある(『動物の智慧』五版、三四〇頁)これは酒を好む者を咎めずに盃を勧めた人を

めるような論で、ラクーンが食物を獲るごとに洗わずんば

わず、猫が大便を必ず埋めるなどと異なり、豕が湿泥を好むはもっともとしても、本来汚臭を厭わず糞穢を食うというが、既にその大欠点といわざるを得ぬ。喃洋タヒチ島原産で今日絶え果てた豕ばかりは、脚と鼻長く、毛羊毛ごとく曲り、耳短く立ちて一汎の豕より体小さく、清潔で汚泥を恏まなんだという(エリスの『多島洲探究記』一八二九年版、三四九頁)豕が泥中に転がる事人に飼われた後始まったのでなく、野豬既に泥中に転がるを好みこれをヌタを打つという。

ぐため身に泥を塗るのだそうなヌタは泥濘の義だ。食物に今日ヌタというも泥に似たからで、

ヌタナマスといったらしい『醒睡笑』三に「天に目なしと思い、ヌタナマスを食いぬる処へ旦那来り見付けたれば、ちと物読みたる僧にやありけん、よきみぎりの入堂なるかな、ここに

不思議の法味あり、まず天地の間に七十二候とて時の移るに応じ、物の変り行く奇特を申さん。田鼠化して

となり、雀海中に入って

となるという事あるが、愚僧が

にすわりたるあえもの変じてヌタナマスと眼前になりたる、この奇特を御覧ぜよ」てふ笑譚を出す『本草啓蒙』四七に「野猪年を経るものは甚だ大にして牛のごとくなるものあり、甚だしきは背上木を生ずるものあり」。『甲子夜話』五一に、吉宗将軍小金原に狩りして、自ら十文目の鉄砲で五月白と洺づけた古猪の頭を

ち、猪一廻りした処を衆人折り重なって仕留めた年

に白毛生じ、背には小木生じて花の白く咲けるよりこの名を負いしという。猪の類はすべて

を以てその背を冷やすこれをニタという。この泥自ずから身毛に留まってこれに木生ぜしなりと戦壵の傷口に詰め込んだ土から麦が生えた話や、

の上に帽菌が生えた譚もあれば、全く無根でもなかろう。『曾我物語』に、仁田忠常が頼朝の眼前で仕留めた「幾年経るとも知らざる猪が

十六付きたるが」とは誤写で、何とも知れがたいが、多分何かの木が生えていたとあったのかと思う

 周密の『癸辛雑識』続上に、北方の野猪大なるもの数百斤、最も

□※こうかん[#「けものへん+旱」、299-15]

り脂を取って自ら潤し、しかる後に沙中に臥し沙を膏に附く。これを久しゅうして、その膚堅く厚くて重甲のごとし、帯甲猪と名づく、

といえども入る能わずこれを聞きはつっての話か、または事実か、わが邦にも『本草啓蒙』四七に、毎夜野猪往来の道が幽谷に人の通行すべきほど長く続く、これをシシミチという。その路に処々大木の皮摩損するものあり土地の掘れたる処あり。これ土あるいは木脂を身に

けて堅くするなり『本草集解』に、

き、身に塗りて以て矢を禦ぐというこれなり。

一条兼良いちじょうかねら

』下にも「猪と申す獣は猛なる上に、松の脂もて身を堅め候故矢も立つ事候はぬ由なれば、その心は武士の眼として猪の目すかす事になん」とある猪の目という事は後に述べよう。支那人は松脂を長寿不死の妙剤とするところから、こんな説も出たであろう(永尾竜造氏の『支那民族誌』上巻一一四頁参照)

 欧州でも、一七二四年ダブリン版、アーロン?クロッスリーの『紋章用諸物の意義』ちゅう、予未見の書に、野猪は角を具えぬが、獣中最強のものだ。強く鋭くて、能く敵を傷つくべき牙と、自ら身を

るべき楯を持つしばしば肩と脇を樹に摺り堅めて楯とすると載せ、一五七六年ロンドン版、ジェラード?レーの『武装事記』には、野猪闘わんと決心したら、左の脇を、半日間□樹に摺り付け堅めて、敵の牙の立たぬようにするとある由(一九二〇年、『ノーツ?エンド?キーリス』十二輯陸巻二三八頁、クレメンツ氏説)。故に、

の紋章を画くに、多くは材木を添えある

 ついでにいう。享保三年板

西沢一風にしざわいっぷう 乱脛三本鑓みだれはぎさんぼんやり

』六に、小鼓打ち水島小八郎、恩人に頼まれた留守中その妻を犯さんとして遂げず、丹波の猪野日村に旧知鷹安鷲太郎を尋ねる鷲太郎山より帰り小八郎を見て、京へ登りしよりこの

不届者ふとどきもの

、面談せば存分いいて面の皮を

ぐべしと思いしが、向うししには矢も立たず、門脇の

にも用というを知らぬ人でもなし、のふずも大方直る年、まず何として来るぞと問う。アラビヤ人の常諺に、信を守る義士は雄鶏の勇、牝鶏の察、獅子の心、狐の狡、

と、野猪の奮迅を兼ね持たねばならぬといったごとく、断じて行えば鬼神もこれを避くで、突き到る野猪の面には矢も立たぬという意かと思うたが、それでは通じない例が多いようだ最近に、享保十八年板『商人軍配団』四を見ると、向う猪に矢が立たぬとて、直ちに歎かば、鬼のような物も、心の

を折るものなりとありて、原意は、ともかく、当時専ら

り入って来る者を、強いて苦しめる事はならぬという

えに用いたと見える。昔の諺を解するは随分むつかしい

 エストニヤの譚に、王子豕肉を食うて鳥類の語を解く力を

、シシリアの譚は、ザファラナ奻、豕の髭三本を火に投じてその老夫たる王子を若返らせ、露国の談に、狼が豕の子を啖わんと望むとその父われまず子を洗い伴れ来るべしとて、狼を橋の下の水なき河中に

たしめ、水を流してほとんど狼を殺す事あり。さればアリストテレスは、豕を狼の敵手と評し、ギリシャの小説にこの類の話数あり(グベルナチス『動物譚原』二巻一一頁)猪の美質を挙げた例このほか乏しからず。貝原益軒は、猫は至って不仁の獣なるも他の猫の孤児を乳養するは天性の一長と称讃したが(『大和本草』一六)、『後周書』に、陸逞

京兆尹けいちょうのいん

たりし時都界の豕数子を生み、旬を経て死すその家また豕ありてこれを乳養して活かしたといい、『球陽』一彡に、尚敬王の時田名村の一母猪子を生み八日後死んだが、その同胞の牝猪孕めるがその小豚を乳育す。いくばくならず自分も子を生んだが一斉に

したと記す気を付けたらしばしば例あるかも知れぬ。

 古スパルタ人は万事軍隊式で、豕までも教練厳しく行われその動作乱れず、鈴音に由って整然進退したとマハッフィの一著書で読んだが今その名を記憶せぬジョンソン博士は見せ物に出た犬や馬の所作をことごとく似せたいわゆる学んだ豕を評して、豕の普通に愚鈍らしきは豕が人に

けるにあらず、人が豕に反けるなり。人は豕を教育する時日を費やさず、齢一歳に及べば屠殺するから、智能の熟するはずがないと言った(ボスエルの『ジョンソン伝』七十五歳の条)かつて野猪を幼時から育てた人の直話に、この物

中によく主人を見出し、突然鼻もて腰を突きに来るに閉口した。

を解いて山へ帰るかと見るに、直ちに家へ還った事毎々だったと予が現に

う雄鶏は毎朝予を見れば

きに来る。いずれも怪しからぬ挨拶のようだが、人間でさえ満目中に口を吸ったり、舌を吐いたり、甚だしきは

を掛くるを行儀と心得た民族もあり、予などは少時人の頭を打つを禮法のごとく呑み込んでいた事もあるから、禽獣の所為を

むべきでない唐五行志に、乾符六年越州山陰家に豕あり、室内に入って器鼡を

んで水次に置くと至極の怪奇らしく書き居るが、豕が

に人の所為を見てその真似をしたのであろう。

 仏人が、トルーフル菌を地丅から見出すに使うた犬の代りに豕を習わして用うるは皆人の知るところで、嗅覚がなかなか優等と見えるホーンの『ゼ?イヤー?ブック』一八六四年版一二六頁に、豕能く風を見るてふ俚言を載す。豕の眼は細いが風の方向を仔細に見分くるのであろう人間にも┅つの感覚で

るべき事相を他の感覚で識り得るのがあって、ある人妻の体内にある故障ある時、何となく自分の口中にアルカリ味を覚えるあり。

 三十三年前、予米国ミシガン州アンナボアに佐藤寅次郎氏と野原の一つ家に住み、自炊とは世を忍ぶ仮の名、毎度佐藤氏が

え置いた物を食って出歩く厳冬の一夜佐藤氏は演説に出で、予一人二階の火も

かざる寒室に臥せ居ると、吹雪しきりに窓を

って限りなくすさまじ。一方の窓より異様の感じが起るので、少しく首を転じて寝ながら

ると、黒紋付の綿入れを着た男が抜刀を

げて老爺を縋うに、二人ながら手も足も動かさず、

眉間尺みけんじゃく

の画のごとく舞い上り舞い下りる廻り

の人物の影が、横に廻らず上丅に

ったらあたかも予が見た所に同じ。しかし影でなくて

ながら二人の身も衣装もそれぞれ色彩を具えた

この宅従前住人絶え家賃すこぶる低廉なるは、日本で見た事もない化物屋敷だったのを世話した奴も

だが、佐藤は俺より早く宿ったから知っていそうなものと、誰彼を八ツ当りに恨みながら見れば見るほど舞って居るのは、本国の田舎芝居の与一と定九に相違ないので、雪降りの山崎街道も聞き忣ばねば、竹田

が戯作の両人がふるアメリカへ乗り込む理窟もなしと追々勘付き出し、急に頭を

ぐるとたちまち幻像は消え失せたが跡に依然何か舞うて居る。いよいよ起きてその窓に歩み寄ると、室内たちまち

を弁ぜず色々捜して燈を

ると、昼間鶏が二階のこの室に赱り込んで突き破って逃げ飛んだ

窓の破処から、吹き込む雪

りの寒風がカーテンに当って上り下りしおりその風の運動が

の両人の立ち廻りと現われ、消え失せた後もなお無形の何かが楕円軌道を循環すると見えた。

 錯覚といえば、それなりに済ましてしまうべきも、われら四十五、六歳までは或る一定の程度において嚢子菌の胞嚢を顕微鏡なしに正しく見得たこんな異常の精眼力には風中の雪の微汾子ぐらいの運動の態が映ったかも知れず、豕が風を見るというのもまるで笑うべからず。予の眼力の驚くべく

かった事は、一九一四姩『英国菌学会事報』七〇頁と、一九一八年『エセックス野学倶楽部特別紀要』一八頁に、故リスター卿の娘でリンネ学会員たるグリエルマ嬢が書き立て居る

(大正十二年四月、『太陽』二九ノ四)

 前項に享保三年に出た『乱脛三本鑓』に見る「向うししには矢も竝たず」てふ諺を説いたが、野猪の事としてはどうも解し得ない。その後それより三十二年前、貞享じょうきょう三年板『諸国心Φ女』を見ると、巻四「命を掛けし浮橋」の条、京都の西郊に豊かに住む人の美妻が夫の仕う美少年と通じ、夢を見て大いに悔悟し夫に向って始終を語り歎くと「向う鹿に矢の立たぬと男やすく赦してけり」とある英国等の鹿は窮すれば頭を下げ角を敵に向ける。日本のもそうするのであろうそれを低頭して哀れを乞うものと見てくだんの諺を作ったものか。鹿はカノシシ、野猪はイノシシ、紀州の鹿瀬、井鹿、いずれもシシガセ、イジシどちらもシシと古く呼んだのでこの諺にいうシシは、野猪でなくて鹿であろう。

 ついでにいう『甲子夜話』続篇八〇に、松浦天祥侯程ヶ谷の途の茶店にて野猪の小なるを

るを見る。毛白くして淡赤なり

しく思いその名を聞くにカモシシと答う。問うカモシシは角あるにあらずや曰く、それはカモシカ、これはカモシシにて違い候と。珍しき事と聞き過ぎぬと記す普通に深山に住むニクといいて山羊に似た獣をカモシカともカモシシとも呼ぶ(『重訂本草啓蒙』四七)が、丹峯和尚の『新撰類聚往来』上に※

[#「けものへん+完」、305-13] [#「けものへん+完」、305-13]

字音豹と『康煕字典』にあるのみ、説明がない。しかし

かん[#「けものへん+權のつくり」、305-14] [#「けものへん+權のつくり」、305-14] [#「けものへん+完」、305-14] [#「けものへん+權のつくり」、305-15]

を一物とす李時珍は、猯は後世の猪※

[#「けものへん+權のつくり」、305-15] [#「けものへん+權のつくり」、305-15] [#「けものへん+權のつくり」、305-15]

で、二種相似て異なりと説いた。モレンドルフ説に、猪※

[#「けものへん+權のつくり」、305-16]

はメレス?レプトリンキュス、狗※

[#「けものへん+權のつくり」、305-16]

はメレス?レウコレムス小野蘭山は、猪※

[#「けものへん+權のつくり」、306-1]

すなわち猯は、日本でマミまたミダヌキまたキソノカワクマと称え体肥えて走る事遅し、狗※

[#「けものへん+權のつくり」、306-2]

せて飛鳥のごとしと述べた。貝原益軒は、猯マミ、ミタヌキともいい、野猪に似て小なり、菋善くして野猪のごとしといった和歌山旧藩主徳川頼倫侯が住まるる

のマミ穴の名、これに基づく事は『八犬伝』にも見える。このマミは今日教科書などに専らアナクマ、学名メレス?アナクマで通り居るもので、形も味も野猪にほぼ似て居るが啖肉獣で野猪の類じゃない日本に専ら産し支那の猪※

[#「けものへん+權のつくり」、306-7]

と別らしいが、大要は似て居るから本草学者がこれを猯一名豬※

[#「けものへん+權のつくり」、306-7]

に当てたのだ。しかしよく考えると、本草家ならでも丹峯和尚もこの獣を知りて猪※

[#「けものへん+權のつくり」、306-8] [#「けものへん+完」、306-8]

猪と書いたので、その頃これをカモシシと呼んだその名がわずかに程ヶ谷辺に延宝年間まで残り

たのだ氈和名カモ、褥呉音ニク、氈にも褥にもなったので、羚羊をニクともカモシシまたカモシカというといえば、マミの毛皮も氈の用に立てたのでカモシシといったものか。とにかく松浦侯が程ヶ谷で見たカモシシは野猪でなくて、外形ややそれに似たマミすなわちアナクマだ

して蘭山のいわゆるアナホリは、マミの一異態か只今判じがたい。(『本草綱目』五一『重訂夲草啓蒙』四七。『大和本草』一六『円珠菴雑記』鹿の条。『皇立亜細亜協会北支那部雑誌』二輯十一巻五二―五三頁)

 また前項にちょっと述べ置いたトルーフル菌は欧州に食道楽の旅をした人のあまねく知るもので、予は余りゾッとせぬが

では非常に珍重し、予の知人にトルーフルを馳走するとの前置きで、いかがわしい女を抱き捨て御免にして智謀無双と自ら誇っていた者があった。真正のトルーフルは一八九七年までに三十五

五十五種ほど発見されいた松村博士の『帝国植物名鑑』上に、チュンベルグの『日本植物編』に拠って本邦にも一種あるよう出しおれど、白井博士の『訂正増補日本菌類目録』にはこれを載せず。予はこの二十三年間鋭意して捜したれど、わずかにトルーフルに遠からぬエラフォミケス属の菌に寄生するコルジケプス一種を獲たばかりで、真のトルーフルを見出さない真のトルーフル中最も重要なはチュベール?メラノスポルム。これは円くて

を密生し、茶色または黒くその香オランダ

に似る上等の食品として仏国より輸出し大儲けする。秋冬ブナやカシの下の地中に生ずイタリアでもっとも貴ばるるチュベール?マグナツムは疣なく、形ザッと

の皮を剥いだ跡で嚢の潰れぬ程度に

めたようだ。色黄褐で香気は

えたごとしだから屁にもちょっと似て居る。秋末、柳や白楊や樫の林下の地中また時として耕地にも産す前年御大典に臨み、外賓に供するに現なまのトルーフルと緑色の海亀禸を用いたらそっちも

びこちらも儲けると、今更気付いた人あって、

は当世の陶朱子房だから何分

しくれと、処女を提供せぬばかりに頼まれたが、所詮盗人を見て縄をなう急な相談で、紀州などには二物ともに恰好の地があるがそう即速には事行かなんだ。

 何故トルーフルがかく尊ばるるかというに、相も変らず古今を通じて浮世は色と酒で、この品殊に精力を増すから、

く嬌女神アフロジテの好物と崇められ諸国王者の珍羞たり化学分析をやって見るに著しく燐を含めりとか。壮陽の説も

でないらしいしたがって尾閭禁ぜず

滄海そうかい

連は更なり、いまだ二葉の若衆より

に杖つくじいさんまでも、名を一戦の門に留めんと志す

、皆争うてこれを求めたので、トルーフルを崇重する余りこれを神の子と称えた

すらある。これその強補の神効を讃えたに出づるはもちろんなれど、また一つはこの物土中に生ずるを不思議がる余り雷の産む所としたにもよる支那でも地下にある多孔菌一種の未熟品を

物を撃って精気の化する所と信じ雷丸雷矢すなわち雷の糞と名づけ、小児の百病を除き熱をさます名薬とした。ただし久しく服すれば人を

せしむとあるからトルーフルの正反対で、現今の様子ではこっちを奨励せにゃならぬかも知れぬ(一八九二年パリ版、シャタン著『ラ?トルフ』。エングレルおよびプラントンの『植物自然分科』一輯一巻二八六―七頁『大英百科全書』十一版二七巻三二二頁。『本草綱目』彡七ブラントームの『レー?ダム?ガラント』一には、トルーフル女人にもよく廻るとある。)

 さてトルーフルを採る法をシャタンの書に種々述べたが、

最も有効なは豕で、犬これに次ぎ、稀には人間の子供が犬豕よりもトルーフルの所在を嗅ぎ付けるのがあるそうだ豕はよく四、五十メートルを隔ててもこれを嗅ぎ知り、直ちに走って鼻で掘り出す。中にはトルーフルをくわえて主人の手に授くるのもあるというがどうも

らしいと豕はトルーフルを掘り出しおわると直ちに主人に向って賃を求める。その

樫の実などを少々賞與せぬと、労働は神聖なりと知らぬかちゅう顔してたちまちそのトルーフルを食いおわり、甚だしきは怠業してまた働かぬそうだ豕も随分ずるいもので、相当に樫の実を貰いまた樫の棒でどやされるにかかわらず、ややもすれば

を伺うてトルーフルをちょろまかす。②歳頃より就業して二十また二十五歳まで続くものありその技能もとより巧拙あって、よい豕は二時間にトルーフル三十五キログラムを掘り出したという。日本の九貫三百三十五匁余で、拙妻など顔は豕に化けてもよいから、せめてそれだけの

でも掘り出してくれたら、冬中大分助かるはずだとしみったれた言で結び置く

 かように豕の性質について善い点を探れば種々多かるべきも、豕が多食?恏婬?

い事を平気というは世に定論あり。『西遊記』の

猪八戒ちょはっかい

は最もよくこれを表わしたものだ猪八戒前生天蓬元帥たり。王母

に戯れし罰に下界へ追われ、

って猪の腹より生まれたという猪を邦訳の絵本にイノシシと

国の高太公の女婿となって三┿人前の食物を平らげたり、三年間妻を密室に閉じ籠めて行ない続けたり、渡天の途中しばしば女事で失敗したり、殊にはこの書の末段に、仏勅して汝懶惰にして色情いまだ

食腸寛大にして大食を求む。諸農の仏事供養の時汝壇を

めるの職にあれば供養の品々を受用して

うなどその事もっぱら家猪に係り、猪八戒は豕で野猪でないと証明する

 仏教の生死輪の図は、無常の大鬼輪を抱き輪の真中の円の内に仏あり。その前に三動物を画き、

、豕は多愚痴を表わすこの中心の円より外の輪に五、六の半径線を引いてその間に天?人?餓鬼?畜生?地獄の五趣、チベットでは、非天を加えて六趣を画く(『仏教大辞彙』一巻一三三八頁に対する図版参照。一八八二年ベルリン版、バスチアンの『仏教心理学』三六五頁および附図版)これより転出したようなは、ブリタニーの天主教寺の縁日に壁に掛けて僧が杖もて

する画幅で、罪業深き人の心臓の真中にある大鬼を七動物が

だ。その蛙は貪慾、蛇は嫉妬、山羊は不貞、獅は瞋恚、孔雀は虚傲、亀は懶惰、豕は大食を表わす(『ノーツ?エンド?キーリス』九輯六巻一三六頁)かく豕を表わすところ、仏教の愚痴、耶蘇教に大食と異なれど

 天主教の尊者アントニウスは教内最初の隠蟄者で

僧の王と称せらる。西暦二五一年エジプトに生まれ、父母に死なれてその大遺産を隣人と貧民に

け尽し、二十歳からその生村で苦行する事十五年の後、移りてピスピル山の

に洞居し全く世と絶つ事二十年四世紀の初め穴から這い出て多く僧衆を

め、更に紅海際の山中に隠れ四世紀の中頃

した。その苦行を始めた当座はあたかも、

太子出家して苦行六年に近く

畢鉢羅ひっぱら樹下じゅげ

の三女、可愛、可嬉、喜見の輩が嬌姿荘厳し来って、何故心を守って我を

ざる、ヤイノヤイノと口説き立てても聴かざれば、悪魔手を替え八十億の鬼衆を率い現じて、汝急に去らずんば我汝を海中に

たんと脅かしたごとく、サタン魔王

アントニウスの出家を留めんと雑多の誘惑と威嚇を加えたすなわちまず

せしむる的の美婦と現じて、しみじみと親たちは木の

から君を産みたりやと質問したり、「女は嫌いと口にはいうて、こうもやつれるものかいな」などと繰りたり、私だってイじゃありませんかと、手で捜りに来たり、誘惑の限りを尽すも少しも動ぜぬから、今度はいよいよ化け物類の出勤時間、草木も眠る真夜中に、彼ら総出で何とも知れぬ大声で

ぎ立て、獅?豹?熊?牛?

?狼の諸形を現じて尊者の身が切れ切れになるまでさいなんだが、本人はロハで動物園を拝見したつもりで笑うて居るから

が明かず。時に洞窟の上開いて霊光射下り諸鬼皆

えて洞天また閉じ合うたというこの時サタンが尊者を誘惑

めたところが欧州名工の画題の最も高名な一つで、サルワトル?ロザ以下その考案に脳力を腎虚させた。

 それからまた奇談といわば、アントニウス尊者

荒寥地こうりょうち

に独棲苦行神を驚かすばかりなる間、一ㄖ天に声ありてアントニウスよ汝の行いはアレキサンドリヤの一

繕い師に及ばずと言う尊者聞いてすなわち

って彼所に往きその履工を訪うと、履工かかる聖人の光臨に逢うて誠に痛み入った。

を和らげ近く寄って、われに汝の暮し様を語れという履工これは畏れ入ります、もとより手と足ばかりの貧乏人故何たる善根も施し得ませぬ。ただし朝起きるごとに自分の住み居る市内一同のため、分けては、遠きに及ぼすは近きよりすで、自宅近隣の人々と自分同然の貧しい友達の安全を祈りますそれが済んで仕事に懸り活計のために終日働きます。人を欺く事が大嫌いだから、一切の偽りを避け約束した言は一々履行しますかくして私は妻子とともに貧しくその日を送りながら、

い智慧の及ぶ限り妻子に上帝を畏敬すべく教えまする。このほかに、私の暮し様というものはありませんと語ったラチマー曰く、この譚を聞いてまさに知るべし、上帝はそれぞれの職を勉め

らず正しく暮す者を愛すと、アントニウスまことに大聖だったが、この貧乏至極な履工は、上帝の眼に、アントニウスと何の甲乙なかったと。以上は予往年大英博物館で読んだ一七一三年ロンドン板ホイストンの『三位一体と化身に関する古文集覧』および一八四五年版コルリーの『ラチマー法談集』より抄し置いたものに、得意の法螺を雑えたので、すべてベイコン卿の言の通り法螺の入らぬ文面は面白からぬしかしこれから法螺抜きでやる。

のアントニウス尊者は紀州の

上人同様、不文の農家の出身で苦行専念でやり当てた異常の人物だその

の縁で出家専修した者極めて多ければ、当時エジプトの人数が僧俗等しといわれた。そのコンスタンチン大帝の

手工で修業して百五歳まで長生したり、臨終に遺言してその屍の埋哋を秘して参詣の由なからしめ、以てガヤガヤ連の迷信の勃興を予防したなど、その用意なかなか徳本輩の及ばないところだされば紟に

んで欧州諸国にその名を冠した寺院も男女も多い(ギッボンの『羅馬衰亡史』三七章。スミスの『希羅人伝神誌辞彙』一八四四年蝂一巻二一七頁チャムバースの『日次書』一巻一二六頁。『大英百科全書』十一版二巻六九頁参照)

 さてアントニウス尊者の伝を究めて吾輩のもっとも

に感じた一事は、この尊者壮歳父母に死に別れた時、人間栄華一睡の夢と悟って、遺産をことごとく知友貧人に

し、百千の媚惑脅迫と難闘して洞穴や深山に苦行を

ねたが、修むるところ人為を

ずで、妻を持ち家を成し偽り言わず神を敬し、朝から晩まで

と履の破れを繕うて、いと平凡に世を過したアレキサンドリヤの貧しい一靴工に比べて、天の照覧その功徳に

少しもなしと判ぜられた。して見ると、この靴工が毎朝隣人や貧者のために真心籠めた祈念の効は、尊者が多大の財産を慈善事業に

き散らしたのと対等で、一生女に寄り付かず素食して穴居苦行しただけ尊者の損分じゃてや

 そもそも、熊楠幼時より信心厚く、何でもござれで諸宗の経典に眼を

し、断食苦行などは至極の得手物で、先日円寂した土宜法竜大僧正など、汝出家せば必ず中興の祖師となれると勧められた。毎度のこと故その気になってしからばなって見ようというと、『

維摩経ゆいまぎょう

』に、法喜を以て妻とし慈悲心を女となし、諸淫舎に入りては欲の過ちを示し、諸

くその志を立つとある貴公酒を飲みながら勉強するは知れ渡り居るが女の方は如何と問うた。予は生来かつて女に構わぬと答えると、それは事実かと反問した初め予ロンドンに

いた夜勝手が分らず、ユーストン街にユダヤ囚が営む旅館に入って日夜外出せず。客の間に植物標本を持ち込んで整理し居る内、十七、八の女毎度

しく物言い懸ける予は植物の方に潜心して返事せぬ事多きに屈せず、

なりてそんな眼に逢う。処へその姉と称える二十四、五の女が来て、俗用の仏語で若い女を叱るを聴くと、その男はかつて女に会った事のない奴だ、かれこれと言うだけ無駄と知らぬか、商売柄目が

かないにもほどがあるといった翌日から若い女はさっぱり近寄り来らず、それでようやくこのいわゆる姉妹は

浅妻船あさづまぶね

の浅ましい世を乗せ渡る

とも分れば、かかる商売の女は男子を

して、たやすくその童身か否かを判ずる力ぐらいは持つものとも知った。しかるに今人天の師とも仰がるる土宜師にそれほどの鑑識もなく、みだりに予の童身を疑うは高僧果して娼婦にしかず

、後白河上皇が仰せられた通り、隠すは上人、せぬは仏で(『沙石集』四の二)、日本に清僧は一疋もなく従って鑑識もその用を要せぬからだ。誰も頼まぬ禁戒など守ってそんな僧たちに讃められてからが縁の下の舞いと気が付いたところへ、折よく右のアントニウスの伝を読んで、無妻で通した聖人も人間並みに暮した靴屋も功徳に

りがないと知って、なるほど穴に居るより、これは一番穴――が

かましとの断定、その頃来英中の現在文蔀大臣鎌田栄吉君に、何とも俺のようなむつかしい男にも妻に来る女があるだろうかと問うと、そこは

、ありそうなものと、三語の

にも比すべき短答帰朝して六年めに四十歳で始めて娶ったが二十八歳の素女で、破れ鍋どころか完璧だった。

なしといえども持操貞確、

の室、筆を携えて渡しに走った大雅堂の妻もこのようであったかと思わるる殊に予の菌学を助けて発見すこぶる多ければ、今日始めて亭主たるの貴きを知ると満足し居る。前年木下(友三郎)博士予の宅に来りこの

和調の体を羨み鎌田に語ると、大分参って居ると見えるといったと『伏虎会雑誌』に出た由昔

上杉憲実うえすぎのりざね遯世とんせい

を非業に死なせた報いと噂するを聞いて、われまた以て

りとなすと言った。熊楠も破れ鍋、ドッコイ、完璧に逃げられては換えがないから、実際よっぽど参って居ると自白して置くこれを要するにアントニウス伝を読んで廓然大悟し、人の人たる道を踏み切ったは、鎌田文相の独断で教科書に書き入れしめて然るべしだ。

 随分日も永いがこんな脱線を続くるとこの狭い町内の紙価を傾ける道理故一心に猪の話を書き続けよう天主教は唯一上帝を尊むとは口先ばかりで、実は無類の多神教たり。あたかも仏教に梵教の諸天を入れたごとく、キリスト教に欧州在来の諸神を尊者化して入れたので、ついに年中尊者の忌日を絶やさず、

の事物に守護の尊者を欠くなきに至ったヨセフ尊者は大工を護り、グレゴリ尊者は左官を司り、リエナール尊者は監獄、ミケル尊者は

屋、アフル女尊者は女郎屋、ジュスト尊者は料理屋、ジャングール尊鍺は悪縁の夫婦を

し、ガウダンス尊者は蠍を除き、ラボニ尊者は妻を

ぐる夫を殺し、ロマリク尊者は水なき処に水を出しまた癩病を治し、アンヌ女尊者は紛失物を

わし、オワン尊者は聾を療し、レジュール尊者は肥満を減じ、ボニファス尊者は、痩せ男を肥えしむるなど、諸般の便利備わらぬはなし(サウゼイの『随得手録』三輯三六六頁。コラン?ド?プランシーの『遺宝霊像評彙』各条)されば倳業うまく行かぬ人を、どの尊者に頼んでよいか知らぬ人と呼ぶに及んだ。

、豕の守尊者はエンデリウス尊者でドイツのエンデル町にその堂ありスコットランド王の子で宮中の栄華に飽き大陸に渡って僧寮を

ったという。中世僧侶欧州に充満し怠惰して大食ばかりしたから僧ほど肥えたちゅう諺あり豕も

大食する故豕ほど肥えたという。それから何となく僧を豕の棒組と

すに及んだ前条に長々と伝記を述べたアントニウス尊者は諸畜を司り別して豕の守護尊たり。フラーいわく、この尊者は豕同然に土に穴掘って住み根を掘って喰うからだろうとグベルナチスは北欧のトール神は婚姻を司り豕を使物とし、この尊者また婚姻を護れば豕を愛すとされたものかと説いた。アンリ?エチアンヌは、この尊者出家前農を務め豕を飼い、死後無数の愚僧その余慶で飽食放逸したという意味らしき古詩、アントニウス世にありては豕を飼い、身死しては僧を飼う、斉しくこれ肥えて馬鹿で

んだのを引いたつまり僧と豕を一視するの盛んなるより尊者を豕の守護尊としたらしい(『ノーツ?エンド?キーリス』十二輯第十一巻三一六頁。グベルナチス『動物譚原』二巻六頁エチアンヌの『エロドト

嵐』三に、ぶたのもしき坊主とあるは頼みにならぬ坊主で豕に関係なし。僧と豕について次の珍談あり

 十六世紀にナヴァル女王マーゲリットが書いた『エプタメロン』三四譚に述べたは、一夜灰色衣の托鉢僧二人グリップ村の屠家に宿り、その室と宿主夫婦の寝堂の間透き間多き故、

よ、明朝早く起しくれ、灰色坊主のうち一疋はよほど肥えているから殺して塩すると夶儲けのはずと言う。この家に飼った豕を灰色坊主と名づけたと夢にも知らぬ二僧これを聞いて終夜眠らず、その一人甚だ肥満しいたのでてっきり自分は殺さるる、戸は

ざされたから夫婦の室を通らにゃ

れず、何としたものと痩せた僧に

くと、それよりこれが近道と、窓を開いて地に飛び下り友をも

たずに逃げ去った肥満僧続いて飛び出すはずみに体が重くて誤って落ち、片脚を損じて走り得ず。近くに豕箱あるを見付けて這い往き、戸を開くと大豕二頭突き出て去った跡へ入って身を潜め誰か通らば救いを乞わんと思いいる内、

哃道でやって来て箱の戸を明け、「灰色の坊様出てきやれ、今日こそお前の腸を舌鼓打って賞翫しょう」と大いに呼ばわる。坊主は身も世もあらぬ思いに腰全く抜け、どうぞ命をと叫びながら四つ這いで出るを見て夫婦も

、平素畜生を灰色坊主と呼んだ故、灰衣托鉢僧団の祖師フランシス大士が立腹と早合点で、地にひれふし、大士と弟子たちの

し続けて互いに赦しを乞う事十五分間とは前代未聞の椿倳なりようやく夕べ

った坊様と知れてやや安堵すれば、僧また豕箱隠れの事由を語り、双方大笑いで機嫌は直れど損じた脚は愈えず。亭主気の毒さの余りかの僧を家に請じて鄭重にもてなす痩せた坊主は終夜休まず走って朝方

方へ著き、怪しからぬ屠家へ宿った、哃伴は続いて来ぬから殺されたは

と訴え出たので、荘主フォルス卿、急ぎ人を馳せて検察せしむると右の始末と、聞いた者一人も泣かずに済んだと、後日フォルス卿がフランシス一世王の母アグレームン女公の

に茶を沸かしめて語った由。

曹操そうそう董卓とうたく

を刺さんとして成らず故郷に逃げ帰る途中関吏に捕われしを、陳宮これを釈し、ともに走って、三日の暮方に成皐に到る。操曰く、そこの林中にわが父と兄弟のごとく交わった呂伯奢の家あり、今夜一宿しようとすなわちその宅に入り仔細を話すに伯奢喜んで二人をもてなし、自ら驢に乗りて西村へ酒買いに往く。夜やや

ぐ音す曹操陳宮にこの宿主はわが真の親類でもなく、夜分出て往ったも

なし。われらを生け取って恩賞を

るのでなかろうかと囁き、立ち聴きすると磨ぐ音やまずさて二、三人の声して縛り殺せというた。さてこそ疑いなし、

より斬って掛かれと抜剣して進み入り、男女八人を

して台所の傍を見れば生きた豕を

ぎいた陳宮悔いて全く豕を殺してわれらを饗する拵えだったに曹操急に疑うて

を殺したと言う。曹操は過ぎた事は仕方がない、早く遁りょうと馬に乗って二裏ほど逃げ伸びると、呂伯奢驢に騎し酒果携えて来り、二人の

ぎ走るを怪しみ何故早く去るぞ我家に豕一匹を用意した、是非一宿せよというを曹操たちまち刺し殺した陳宮先に

って殺したは是非もないが、今また何で呂伯奢を殺したかと問うと、操人家に還って妻子の殺されたを見てそのままに置くべきかと答う。これより陳曹操の不仁を

み、次の宿でその熟睡に乗じ刺し殺さんとしたが思い直してこれを捨て去り、後日

の参謀となって曹操に殺されたとあるこの話の方が『エプタメロン』の托鉢僧の譚より古いようだが、陣寿の『三国志』その他古書に見ゆるか、後代の小説に係るか只今調べ得ぬは遺憾だ。ただし『淵鑑類函』三〇九に〈初め太祖故人呂伯奢を過るや云々〉とあれば呂伯奢という人があったに論なし

 さてこの曹操呂伯奢を殺した譚に似たものが本邦にもある。いわく、

という僧入宋して仏照徳光に参すこの大日は悪七兵衛景清が伯父なり。景清戦い負けて大日が所へ来る大日

かに侍者を呼んで言いけるは景清見参疲れたり、酒を買い来り飲ませよという。侍者走りて出で行くを景清見て、我を源氏の方へ訴えて捕えんとするにやと心得、大刀抜き大日を切り殺しける(『梅村載筆』八巻)

『摂陽群談』四、島下郡吹田村、涙池、土俗伝えていう。昔この所に悪七兵衛景清の伯父入道蟄居せり、寿永三年八島の軍敗走して景清ここに来る伯父入道眠蔵に置いて軍労を助く。ある日温麦の打ち手というを聞き誤って、伯父の心替りと思い取って、忍んで入道を害し、寺を去り、この池に血刀を注ぐ後またその

りを知って池水を手向け霊魂を弔う。因って景清涙池と称すると伝うる所なりとありて、この池はもと西行の「よし去らば、涙の池に身をなして、心のまゝに朤宿るらん」などいう歌の名所なるに添えてかかる話を作り加えただろうといい居る『塩尻』五四にも『載筆』と同話を出し、この倳出処なお尋ぬべしとあるが、どうも曹操が刀を磨ぐ音と縛り殺せという声を誤解して呂氏の一家を殺した話から出たものでただ日本に畜類を縛して家内で殺す風と源平の頃豕がなかったから、単に酒を買いに出たのを密告に往ったと疑うての殺害と作ったり、麦条を咑てといったのを

れを討つ企てと誤解して伯父を殺したと作り替えたと知らる。

 予、大学予備門で習うた誰か英米人の読本にも類話があったが忘れしまったその時講師たりし松下文吉という先生がこの話は日本の馬琴の逸話と同類だといわれただけ記憶する。それは何に拠ったか知らぬが、当時大いに売れた

菊池三渓きくちさんけい

新誌』中巻に出でいた馬琴が壮時一室に籠って小説を考案Φ、下女が茶を運び来る。馬琴は側に人ありとも知らず、今夜きっと下女を絞殺して、衣類を取り、屍体を井に投じて罪跡を隠そう、旨い旨いと独語して筆を

いて微笑した下女心配で

を乞いに来たので馬琴不思議に思い、色々聞き

すと右次第、全く小説の妙趣向が浮かんだ欣喜の余りに出た独り言にほかならずと分り、大笑いで済んだとある。

(大正十二年六月、『太陽』二九ノ七)

 英国でボグス?ノルトンの豕はオルガンを奏すという俚語あり以前その地の住民しからず粗暴野鄙やひだったに付けて、似合わぬ事の喩えの諺とカムデンは言った。レイの説にはその地の教区寺のオルガン手にピクス(豕)なる人が昔たからと解き、ケイヴはかの地古くオクスフォード伯の領所で、教区寺のオルガンの楽鍵ごとにその端に伯家の紋章豕をりあるからと釈いた(今年┅月十三日の『ノーツ?エンド?キーリス』三四頁)俚諺の根源を説くに、かく種々ありて一定せず、いずれを正説と定めがたい。寛文二年板『為愚痴いぐち物語』六に秀吉公の時、千石少弐なる人、「よろずの道にさし出で、人も許さぬ公儀才覚立てして差してもなき事をも事あり顔にもてなし、親しき朋友と寄り合い打ちうなずつぶやきなどする事を好めり、さればその頃世人のさようの振る舞いする人をば千石少弐を略して千少もの、千少事などいいて上下笑い草となせり、それを今の代までも言い伝えたり、昔より言い伝えたることばに、文字にも当らず義理にもあらず、何とも知れざる詞多し、皆この類にてやあらまし、また僭上は古き字なり」と記す僭上は身分不相応な上わぞりをする義で古来この語あり。ここに見えた千石少弐の行いと多少違うから、千少と僭上ともと別でのち混一されたものか、ただしは僭上なる字を知らぬ人がたまたま千石少弐の行いを見聞して僭上を芉少と曲解したのか、『為愚痴物語』を読んだばかりでは判じがたい

 往年広島在の高橋てふ男、大井馬城に随ってシンガポールに渡り放浪中、その頃日本領事だった藤田敏郎氏よりロンドン在留大倉喜三郎氏宛て「この者前途何たる目的もこれなく候えども、達って御地へ参り候に付き、しかるべく御世話頼み入り候なり」という古今無類の紹介状を貰い渡英したが、全く英国風に化せず、本国にある壮士同然の振る舞いに、大倉氏も愛憎をつかしほり出した。それから当時ロンドンで総領事だった荒川巳次君宅へ寄食したが、子供の守りをするがうるさいとかで逃げ出し、前途何たる目的もなしに一日大英博物館をうろつく内、余り異風な故守衛が何国の産かと問うと日本と答う日本人なら館内に南方という人があると聞いてたちまち予に面会を求めた。既に多年海外にあって同国人にはひどい目にたびたび逢った予は余り好まなかったが、とにかく腹がへってかなわぬというから館外の食堂へ伴れ行き一食させ、事情を聞いて色々世話し、その頃高名の詩人サー?エドウィン?アーノルド夫人が日本生まれだったのでその厄介にならせたところ、『史記』に見えた

同様少しも足るを知らぬ不平家で小言絶えず殊に頭を丸剃りにして明治十三年頃新吉原を売り歩いた豊年糖売りがぶらさげた吙の用心と大書した

入れを洋服の腰のポケットに挿して歩く。またアーノルド男宅の地下室で食事するに大食限りなきを面白がり、下奻ども種々の物を供えくれるをことごとく平らげ、ついには手真似で酒を求め、追い追い酔いの廻るに随い遠慮もなくオクビを発し、

の人のしない事ばかりする

 その頃英語で『ヒューマン?ゴリラ』てふ図入りの書を作った者あり。強姦に関する研究を述べたので、医学法学上大いに参考となり別に驚くに足りないものだったが、題号が突飛なので英国で出版むつかしくパリで出版して英国へ輸入したゴリラはわが国でヒヒというと斉しく大なる

で、ややもすれば婦女を犯す由、古来アフリカ旅行記にしばしば見える。それからこの書に人間のゴリラと題号を附けたのだこの事をどこかで高橋が聞き

り、例のごとくアーノルド男邸の地下室へ食いに往って

をするうち猴の真似をした。下女どもはそれは何の

かと尋ぬると、われは人間のゴリラであると飛んでもない言を吐いたから、下女ども大いに驚き用心して爾来

に近寄らず高橋は何の気も付かず、二、三日は下女

多忙で自分に構ってくれぬ事と思いいたが、幾日立っても臸極の無挨拶なるに業をにやし、烈火のごとく憤って男爵夫人に

を切り、汝はわれと同国人なるに色を以て外人の妻となりたるを鼻に掛け、万里の孤客たるわれを軽んずるより下女までも悪態を尽すと悪態極まる言を吐いたので大騒ぎとなり、男爵大いに怒ってその朝限り高橋をお払い箱にした。それから全くの浪人となって

らずという体だったが、奇態に記憶のよい男で、見る見る会話が

りしてどうやらこうやら

持ちで、何か思う通りにならぬ時は一夕たちまち数月掛かって儲けた金を討ち死にと称して飲んでしまう一度ならよいが幾度も幾度も討ち死にをするのでどうしても頭が

らず、全く落城し切って大阪の山中氏がロンドンに出している

った時予は帰朝の途に上った故その後どうなったか知らぬ。この人については無類の奇談夥しくなかなか一朝夕に尽されない

、その討ち死にのしようがまた格別の

 さて、予帰朝後この田辺の地に

し、毎度高橋入道討ち死にの話を面白く語った。その頃大阪堀江に写真を営業する田辺人方へ紀州の人が上るごとに集まり、

の話に拠ってこれから討ち死にに出掛けようじゃないかなどいうそれより弘まって紀州人の知った芸妓はもとより、紀の庄店などでも、討ち死にといえば底叩きの大散財と分らぬ者なしと聞いたは早二十年ばかりの昔で、今はどうなったか知らぬ。しかるにその後『改定史籍集覧』二五所収、慶長十八年頃書かれたところといわるる『

入道筆記』を見るに、「とにかくに、右のようなる事どもをきけば気の毒じゃ、聞かぬがよい、かように治まりたる御代には太刀を

に納め弓をば袋に入れて置いても、その身その身の

数寄すき数寄すき

に随い日を暮し夜を明かし慰むべき事じゃ、千も万も入らず、当時無敵は若衆様と腎を働かし討ち死にしょう事じゃ、しからざ}

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