作者:夏目漱石 来源:青空文库 00:04
主人は
吾輩は主人の顔を見る度に考える。まあ何の因果でこんな妙な顔をして
主人の小供のときに牛込の山伏町に
主人のあばたもその振わざる事においては宗伯老のかごと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる
かくのごとき前世紀の紀念を満面に
もっとも主人はこの功徳を施こすために顔一面に
いくら功徳になっても訓戒になっても、きたない者はやっぱりきたないものだから、
哲学者の意見によって落雲館との喧嘩を思い留った主人はその後書斎に立て
今日はあれからちょうど
書斎は南向きの六畳で、日当りのいい所に大きな机が
机の前には薄っぺらなメリンスの
まだ考えているのか
風呂場にあるべき鏡が、しかも一つしかない鏡が書斎に来ている以上は鏡が
かくとも知らぬ主人ははなはだ熱心なる
こんどは顔を横に向けて半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。「こうして見ると大変目立つやっぱりまともに日の向いてる方が
鏡は
かように考えながらなお様子をうかがっていると、それとも知らぬ主人は思う存分あかんべえをしたあとで「
今度は
主人が
拝啓
とあって差し出し人は華族様である。主人は黙読一過の
時下秋冷の
大日本女子裁縫最高等大学院
校長
とある。主人はこの
親友も
人を人と思わざれば
吾の人を人と思うとき、
在巣鴨
針作君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄附金の依頼でないだけに七拝ほど
ところへ「頼む頼む」と玄関から大きな声で案内を乞う者がある声は迷亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。主人は先から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のまま
「おい
「おや君かもないもんだそこにいるなら何とか云えばいいのに、まるで
「うん、ちと考え事があるもんだから」
「考えていたって通れくらいは云えるだろう」
「相変らず度胸がいいね」
「せんだってから精神の修養を
「物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だねそんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え」
「誰を連れて来たんだい」
「誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ是非君に逢いたいと云うんだから」
「誰でもいいから立ちたまえ」
主人は
「さあどうぞあれへ」と床の間の方を指して主人を
「さあどうぞあれへ」と向うの云う通りを繰り返した
「いやそれでは御挨拶が出来かねますから、どうぞあれへ」
「いえ、それでは……どうぞあれへ」と主人はいい加減に先方の口上を真似ている。
「どうもそう、
「御謙遜では……恐れますから……どうか」主人は
「まあ出たまえそう
「苦沙弥君これが毎々君に噂をする静岡の伯父だよ伯父さんこれが苦沙弥君です」
「いや始めて御目にかかります、毎度迷亭が出て御邪魔を致すそうで、いつか参上の上御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い
「私も……私も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしく」と云い終って頭を少々畳から上げて見ると老人は
老人は呼吸を計って首をあげながら「私ももとはこちらに屋敷も
「伯父さん将軍家もありがたいかも知れませんが、明治の
「それはない。赤十字などと称するものは全くないことに宮様の御顔を拝むなどと云う事は明治の
「まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総会があるのでわざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよそれだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ているフロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。
「だいぶ人が出ましたろう」と
「いや非常な人で、それでその人が皆わしをじろじろ見るので――どうも近来は人間が物見高くなったようでがすな
「ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな」と老人らしい事を云う。これはあながち主人が
「それにな皆この
「その鉄扇は
「苦沙弥君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ伯父さん持たして御覧なさい」
老人は重たそうに取り上げて「失礼でがすが」と主人に渡す。京都の
「みんながこれを鉄扇鉄扇と云うが、これは
「へえ、何にしたものでございましょう」
「兜を割るので、――敵の目がくらむ所を
「伯父さん、そりゃ正成の甲割ですかね」
「いえ、これは誰のかわからんしかし時代は古い。
「建武時代かも知れないが、寒月君は弱っていましたぜ苦沙弥君、今日帰りにちょうどいい機会だから大学を通り抜けるついでに理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割が鉄だものだから、磁力の器械が狂って大騒ぎさ」
「いや、そんなはずはないこれは建武時代の鉄で、
「いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月がそう云ったから仕方がないです」
「寒月というのは、あのガラス
「
「玉を
「なるほど」と主人はかしこまっている。
「すべて今の世の学問は皆
「なるほど」とやはりかしこまっている。
「伯父さん心の修業と云うものは玉を磨る代りに
「それだから困る決してそんな
「とうてい分りっこありませんね。全体どうすればいいんです」
「御前は
「いいえ、聞いた事もありません」
「心をどこに置こうぞ敵の身の
「よく忘れずに
「なるほど」と今度もなるほどですましてしまった
「なあ、あなた、そうでござりましょう。心をどこに置こうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり敵の太刀に心を置けば……」
「伯父さん苦沙弥君はそんな事は、よく心得ているんですよ。近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから客があっても取次に出ないくらい心を置き去りにしているんだから大丈夫ですよ」
「や、それは
「へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだだもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」
「実際遊んでるじゃないかの」
「ところが
「そう、
「ええ、どうも聞きませんようで」
「ハハハハそうなっちゃあ
「鰻も結構だが、今日はこれからすい
「ああ
「
「だって
「
「なに妙な事があるものか
「蝦蟆を打ち殺すと
「じゃ、その、すい原へこれから行くんですか困ったな」
「なに
「一人で行けますかい」
「あるいてはむずかしい車を雇って頂いて、ここから乗って行こう」
主人は
「あれが君の伯父さんか」
「あれが僕の伯父さんさ」
「なるほど」と再び
「ハハハ豪傑だろう。僕もああ云う伯父さんを持って仕合せなものさどこへ連れて行ってもあの通りなんだぜ。君驚ろいたろう」と迷亭君は主人を驚ろかしたつもりで
「なにそんなに驚きゃしない」
「あれで驚かなけりゃ、胆力の
「しかしあの伯父さんはなかなかえらいところがあるようだ。精神の修養を主張するところなぞは
「敬服していいかね君も今に六十くらいになるとやっぱりあの伯父見たように、時候おくれになるかも知れないぜ。しっかりしてくれたまえ時候おくれの廻り持ちなんか気が
「君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。第一今の学問と云うものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしないとうてい満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に
「えらい事になって来たぜ何だか
八木独仙と云う名を聞いて主人ははっと驚ろいた。実はせんだって
「君独仙の説を聞いた事があるのかい」と主人は
「聞いたの、聞かないのって、あの男の説ときたら、十年前学校にいた時分と
「真理はそう変るものじゃないから、変らないところがたのもしいかも知れない」
「まあそんな
「これは舶来の
「君はその時分からごまかす事に妙を得ていたんだね」
「……すると独仙君はああ云う好人物だから、全くだと思って安心してぐうぐう寝てしまったのさ。あくる日起きて見ると膏薬の下から
「しかしあの時分より
「君近頃逢ったのかい」
「一週間ばかり前に来て、長い間話しをして荇った」
「どうりで独仙流の消極説を振り舞わすと思った」
「実はその時
「奮発は結構だがねあんまり人の云う事を
「あれには当人
「そうさ、当人に云わせるとすこぶるありがたいものさ。禅の
「そうかな」と苦沙弥先生少々腰が弱くなる。
「この間來た時禅宗坊主の
「うん
「その電光さあれが十年前からの
「君のようないたずらものに逢っちゃ
「どっちがいたずら者だか分りゃしない僕は禅坊主だの、悟ったのは大嫌だ。僕の近所に
伊豫の
『M――といふ家はどちらでせう。』
と訊くと、その人の答へないうちに、
『M――さんに行くのですか』
と他の一人が訊き返した。同じ船から上げられた郵便局行の行嚢を取りあげやうとしてゐる配達夫らしい中年の男であつた
と答へると、彼は默つて片手に行嚢を提げ、やがて片手に私の柳行李を持ち上げて先に立つた。惶てながら私はそのあとに從つた
二三町も急ぎ足にその男について行くと彼は岩城島郵便局と看板のかゝつてゐるとある一軒の家に寄つて私を顧みながら、
其處のまだ年若い局長であるM――君は
うから我等の結社に加入して歌を作つた。その頃一年あまり私は父の病氣のために東京から郷里
の方に歸つてゐたそのうち父がなくなり、六月の末であつたか、私は何だか寂しい鬱陶しい氣持を抱きながら上京の途についたのであつた。そしてその途中、豫ねてその樣に手紙など貰つてゐたので、九州から四國に渡り、其處から汽船に乘つてこのM――君の住む島に渡つて行つたのである手紙の往復は重ねてゐたが、まだ逢つた事もなく、どんな職業の人であるかも知らなかつた。
M――君はたいへん喜んで、急がないならどうぞゆつくり遊んでゆく樣に、と勸めて呉れた身體も氣持もひどく疲れてゐた時なので、言葉に甘えて私は暫く其處に滯在する事にした。M――君はその本宅と道路を中にさし向つた別莊の雨戸をあけて、
『こちらが靜かですから……』
自由に起臥する樣にと深切に氣をつけて呉れた
M――家は島の豪家らしく、別莊などなか/\立派なものであつた。私の居間ときめられた
は海の中に突き出た樣な位置に建てられ、三方が海に面してゐた肱掛窓に
つて眺めると、ツイその正面に一つの島が見えた。その島はかなり嶮しい勾配を持つた一つの山から出來てゐて、海濱にも人家らしいものはなかつた山には黒々と青葉が茂つてゐた。その島の蔭から延いて更に二つ三つと遠い島が眺められた遠くなるだけ夏霞が濃くかゝつてゐた。手近の尖つた島と自分の島との間の瀬戸をば日に一度か二度、眼に立つ速さで潮流が西に行きまた東に流れた汐に乘る船逆らふ船の姿など、私には珍しかつた。
一方縁側からは自分の島の岬になつた樣な一角が仰がれた麓からかけて隨分の高みまで段々畑が作られて、どの畑にも麥が黄いろく熟れ、滯在してゐるうちにいつかあらはに刈られて行つた。
その頃私は或る私立大學を卒業して五六年もたつてゐるに係らず、まだ職業らしい職業を持つてゐなかつた『金にもならぬ和歌ばかり作つてゐて一體お前はこの若山家をどうする氣か』と云つて、先頃まで歸つてゐた郷里の家で、病父の枕許で、年とつた母や親戚たちから私は責められた。苦しい中から學資を貢がせられ、漸く卒業したと思ふに五年たつても六年たつても金の一圓送つて貰へない彼等の身になつて見るとその苦情も當然であつたたゞ父だけはその性分からか、さまでに氣にかけず『もう少し待つて見ろ、そのうちに何かするだらう』と寧ろ彼等を慰めてゐた。その父が死んで見るといよ/\私の立場は苦しくなつた是から東京に出て新聞社などに勤めた所で幾らの送金が出來るわけでもなし、いつそこのまゝ母の側にゐて小學校なり村役場なりに出て暮らさうかとまで考へて、そのロを探したがなまじひに何々卒業の肩書のあるのが邪魔になつて都合よく行かなかつた。いよいよ弱つたはてにまた母や姉から若干の旅費を貰つて、ともかく東京へ出て見ようといふ途中に、この瀬戸内海の中の小さな島に立ち寄つたのであつた
凭り馴れた肱掛窓に凭つてかけ出しの樣になつてゐる窓下を見るともなく見てゐると、丁度干潟になつた其處に何やら
くものがある。よく見ると、
だ┅つ、二つ、やがては五つも六つも眼に入つて來た。それを眺めながら、私は
く或る事を考へてゐた父危篤の電報に呼び返さるゝ數ㄖ前に私は結婚してゐた。一軒の家でなく、僅か一室の間借をして暮してゐたので、私の郷里滯在が長引くらしいのを見ると、妻も東京を引きあげて郷里の信州に歸つてゐたそして其處で我等の長男を産んでゐた。私が今度東京に出るとなると、早速彼等を呼び寄せなくてはならぬ要るものは金である。その金の事を考へてゐるうちに見つけたのが飯蛸であつたそして可愛ゆげに彼等の遊び戲れてゐるのに見入りながら、
一つの方法を考へた。一年あまりの郷里滯在中は初めから終りまで私にとつては居づらい苦しい事ばかりであつたどうかしてそれを紛らすために、いつか私は夢中になつて歌を作つてゐた。その歌が隨分になつてゐる筈だそれを一つ取り
めて一册の本にして多少の金を作りませう、と。
つたまゝ別莊の玄關にころがしてあつた柳行李を解いて、私はその底から二三册のノートを取り出したそしてM――君から原稿紙を貰つて、いそ/\と机に向つた。左の肱が直ぐ窓に掛けられる樣に、そして左からと囸面からと光線の射し込む位置に重々しい唐木の机は置かれたのである
が豫想はみじめに裏切られた。それ以前『死か藝術か』といふ歌集に收められた頃から私の歌は一種の變移期に入りつつあつたのであるが、一度國に歸つてさうした異常な四周の
に置かるゝ樣になると、坂から落つる石の樣な加速度で新しい傾向に走つて行つた中に詠み入れる内容も變つて來たが、第一自分自身の調子どころか二千年來歌の常道として通つて來た五七五七七の調子をも押し破つて歌ひ出したのであつた。何の氣なしに、原稿紙を擴げて、順々にたゞ寫しとらうとすると、その異樣な歌が、いつぱいノートに滿ちてゐたのである實は、郷里を離れると同時に、時間こそは僅かであつたが、やれ/\と云つた氣持ですつかり其處のこと歌のことを忘れてしまつてゐたのであつた。そしていま全く別な要求からノートを開いて見て、其處に盛られた詩歌の異樣な姿にわれながら肝をつぶしたのである
其處には斯うした種類の歌が書きつらねてあつた。
新たにまた生るべしわれとわが身に斯くいふ時涙ながれき
あるがままを考へなほして見むとする心と絶對に新しくせむとする心と
ともし斯くもするはみな同じやめよさらばわれの斯くして在るは
いづれ同じ事なり太陽の光線がさつさとわが
感覺も思索も一度切れてはまたつなぐべからず繋ぐべくもあらず
日を浴びつつ夜をおもふは心痛し新しき不可思議に觸るるごとくに
言葉に信實あれわがいのちの沈默よりしたたり落つる言葉に
さうだあんまり自分の事ばかり考へてゐたあたりは
自分の心をほんたうに自分のものにする爲にたび/\來て机に向ふけれど
自分をたづぬるために穴を掘りあなばかりが若し殘つたら
何處より來れるやわがいのちを信ぜむと努むる心その心さへ捉へ難し
眼をひらかむとしてまたおもふわが
死人の指の動くごとくわが貧しきいのちを追求せむとする心よ
といふ樣なのがあるかと思へば、また、
ふと觸るればしとどに搖れて影を作る紅ゐの薔薇よ冬の夜のばらよ
開かむとする薔薇散らむとするばら冬の夜の枝のなやましさよ
靜かにいま薔薇の花びらに來ていこへるうすきいのちに
傲慢なる河瀬の音よ
悲しみと共に歩めかし薔薇悲しみの靴の音をみだすなかればらよ
吸ふ息の吐く息のわれの靜けさに薔薇の紅ゐも病めるがごとし
むなしきいのちに映りつつ眞黒き珠の如く冬薔薇の花の輝きてあり
われ素足に青き
薔薇に見入るひとみいのちの痛きに觸るる瞳冬の日の午後の憂鬱
古びし心臟を捨つるが如くひややかに冬ばらの紅ゐに瞳向へり
愛する薔薇をむしばむ蟲を眺めてあり貧しきわが感情を刺さるる如くに
灯を消すとてそと息を吹けば薔薇の散りぬ悲しき寢醒の漸く眠りを思ふ時に
この冬の夜に愛すべきもの薔薇ありつめたき紅ゐの郵便切手あり
やや深き溜息をつけば机の上眞青のばらの葉が動く冬の夜
ラムプを手に狹き入口を開けば先づ薔薇の見えぬ深き闇の部屋に
餘り身近に薔薇のあるに驚きぬ机にしがみつきて讀書してゐしが
忘れものばかりしてゐる樣なおちつきのない男の机の冬の薔薇
晝は晝で夜は一層ばらが冷たい樣だ何しろおちつかぬ自分の心
と思ふまにばらがはら/\と散つた朝久しぶりに凭つた暗い机に
ぢいつとばらに見入る心ぢいつと自分に親しまうとする心
斯うしてぢいつと夜のばらを見てゐる時も心はばらの樣に靜かでない
ばらが沝を吸ひやめたやうだガラスの小さな壜の冬の夜のばらが
かと思ふと、或る海岸の荒磯に遊んでは、
あはれ悲しいで
とかくして登りつきたる山のごとき
岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆をあぐ
嬉し嬉し海が曇るこれから漸くわたしのからだにもあぶらが出る
岩のあひだを這ひて歩くはだしで笑ひて浪とわれと
鵜が一羽不意にとびたちぬ岩かげの藍色の浪のふくらみより
下駄をぬいでおいたところへ來たこれからまた
この帆にも日光の明暗ありかなしや青き海のうへに
水平線が鋸の齒のごとく見ゆ太陽のしたなる浪のいたましさよ
少女よその蜜柑を摘むことなかれかなしき葉の蔭の
精力を浪費する勿れはぐくめよと涙して思ふ夜の浪に濡れし窓邊に
悲しき月出づるなりけり限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜に
と云ふ風の歌を作つてゐるのであつた
ツイ、僅かばかり前に一生懸命して自分で作つておきながら、いま改めて見直すとなつて殆んど正體なく驚いたのである。どうしてあんなに驚いたのか今考へればわれながら可笑しいが、とにかくに驚いたほんの數日ではあつたが、郷里を離れてさうした島の特別にも靜かな場所に身を置いたゝめ、前と後とで急に深い距離が心の中に出來てゐたのかも知れぬ。
驚愕はいつか恐怖に變つた何だか恐しくて、とても平氣でそんな歌を清書してゆく勇氣がなくなつてしまつた。と云つて、心の底にはさうして作つてゐた當時の或る自信が矢張り何處にか根を張つてゐたそしてその自信は書かせようとする、故のない恐怖は書かせまいとする、その
れが甚しく私の心を弱らせた。二日三日とノートと
み合ひをしてゐるうちに
に私は食事の量が減り始めた氣をまぎらすためにM――君から借りて讀んだ萬葉集の、讀み馴れた歌から歌を一首二首と音讀しようとして聲が咽喉につかへて出ず、強ひて讀みあげようとするとそれは怪しい
の聲となつた。萬葉の歌を眞實形に出して手を合せて拜んだのはこの時だけであつた
に友囚が心配しだした。そして、では私が代つて清書してあげませうと言ひながら、次から次と書きとつて行つたそれをば唯だ茫然と私は見てゐた。さうなつてからは日ならずして二三册のノートの歌が一綴の原稿紙の上にきれいに寫しとられてしまつた
折角久し振におちついてゐた私の心はその清書にかゝらうとした時から再びまた烈しい動搖焦燥の
にあつた。そして友人の手によつて清書が出來仩るや否や、それを行李に收め、あたふたと私はその靜かな島を辭した
丁度十年ほど前にあたる。いまこの島の數日を考へてゐると、其處の友人の家の庭にあつた柏の木の若葉、窓の下の飯蛸、または島から島にかけて啼き渡つてゐた
の聲など、なほありありと心の中に思ひ出されて來る
いま一度、私は瀬戸内海の島に渡つて行つたことがある、備前の宇野港から數里の沖合に在る直島といふのへ。
夏の初、やゝもう時季は過ぎてゐたがそれでもまだ附近の内海では盛んに名物の鯛がとれてゐたその鯛網見物にと、岡山の伖人I――君から誘はれて二人して出懸けたのであつた。直島附近は最もよく鯛漁のあるところと云はれてゐるのださうだ
附近に並んでゐる幾つかの島と同じく、直島も小さな島であつた。名を忘れたが、島の主都に當る某村に郷社があり、其處の神官M――氏をI――君は知つてゐたそして網の周旋を頼むためにこんもりと樹木の茂つた神社の下の古びた邸にM――氏を訪ねて行つた。
、髮の半白な、元氣のいゝ老人であつたそして私は同氏によつてその島が崇徳上皇配流の舊蹟で、附近の島のうちでも最も古くから開けてゐた事、現にM――家自身既に十何代とか此處に神官を續けて來てゐる事等を聞いた。内海の中に所狹く押し並んでゐる島々のうちにも、舊い島新しい島の區別のあることが私には興深く感ぜられた
『では、參りませう。網は
の濱といふ所で曳くのですが、途中を少し□つて上皇の故蹟を見ながら參りませう』
『でも、たいへんではありませんか。』
『いゝえなに、島中くるりと□つても半日とはかゝりませんからな、ハヽヽ』
私も笑つた。その小さな島にさうした歴史の殘つてゐることがまた面白く感ぜられた多分、船着場や潮流のよしあしなどの關係から出てゐることであらうとも思つた。
邸の前から漁師の家の間を伍六十間も歩くと直ぐ山にかゝつたとろ/\登りの坂ではあつたが早くも汗が浸み出た。晴れてはゐても、空には雲が多かつた
『あそこに見えますのが……』
杖をとつて先に立つてゐた老人は立ち止つた。まばらに小松が生え、下草には低い雜木が青葉をつけ、そしてところどころそれらが禿げて地肌の赤いのを
はしてゐる樣な山腹を登つてゐた時であつた老人にさし示されたところは我等より右手寄りの谷間に當つて其處ばかり年老いた松が十本あまり立ち籠つてゐた。
『上皇のお側に仕へてゐた
がおあとを慕うて島へ渡つて參り、程なく身重になつたで、身二つになるまであそこの谷間に庵を結んで籠つてゐたと云ひ傳へられてゐる處です。』
むんむと蒸す日光の照りつけたその松林にははげしい蝉時雨が起つてゐた
『さうして生みおとされたお子さまなどは、どういふことになつたのでせう。』
『さア、どうなられましたか……、まだほかに上皇の姫君も父君のおあとを慕つて參られましたが、どうしたわけか御┅緒におゐでずに、此處とは別な谷間に上臈と同じく庵を結んで居られたと申します』
程なくその島の背に當つてゐる峠を越した。そして少し下つた處に
上皇を祭つたお宮があつたあたりは廣い松林で、疎ならず密ならず、見るからに明るい氣持がした。お宮もまた小さくはあつたががつしりした造りで、庭も社殿も清らかな松の落葉で掩はれてゐたことにいゝのは其處の遠望であつた。眼下の小さな入江、入江の澄んだ潮の色、みないかにも綺麗で、やゝ離れた沖の島の數々、更に遠く眺めらるゝ四國路の高い山脈、すべてが明るく美しく、それこそ繪の樣な景色であつた
其處から二三丁下つたところに
の跡があつた。其處も前の
の庵のあとゝ同じく小さな谷間、と云つても水もなにもない極めて小さな
の一つに當つてゐた松がまばらに立ち並び、雜木が混つてゐた。平地と云つても、ほんの手で
ふほどの廣さでM――氏に言はるゝままに注意して見るとその平地が小さく三段に區汾されてゐるのが眼についたそれ/″\の段の高さおよそ三四尺づつで、茂つた草を掻き分けて見ると僅かに其處に石垣か何かの跡らしいものが見分けられた。段々になつた一番下の所に警護の武士の詰所があり、二番目が先づお附の人の居た場所、一番上の狹い所が恐らく上皇御自身の御座所ででもあつたらう、といふM――老人の解釋であつたとすると、御座所の御部屋の廣さは僅かに現今の㈣疊半敷にも足りない程度のものであつたに相違ないのである。そして、一番下の警護の者の詰所から十間ほどの下には、黒い岩が露はれて波がかすかに寄せてゐたあたりを見□しても嶮しい山の傾斜のみで、此處のほかには一軒の家すら建てらるべき平地が見當らない。同じ島のうちでも、全然家とか村とかいふものから引離された、斯うした所を選んで御座所を作つたものと想像せらるゝのであつた斯ういふ窮屈な寂しい所に永年流されておゐでになつて、やがてまた四國へ移され、其處で上皇はおかくれになつたのだつたといふ。
其處から路もない磯づたひを歩いて入江に沿うた一つの村に出た玉積の浦というた。其處を右に切れて田圃を拔けるとまた┅つ弓なりに彎曲した穩かな入江があり、廣々とした白砂の濱を際どつて一列の大きな松の並木が並び、松の蔭に四五軒の漁師小屋があつた其處が名にふさはしい
の濱といふのであつた。
丁度、晝前の網を曳きあげたところであつたが、一疋の鯛もかゝつてゐなかつた次の網は午後の三四時の頃だといふ。途方に暮れて暫らく松の蔭に坐つてゐたが、やがてM――老人は急に立ち上つて漁師共の寄つてゐる小屋へ出かけて行つたそしてにこ/\と笑ひながら歸つて來た。
『えゝことがある、今に仰山な鯛を見せてあげますぞ』
老人からこつそりとわけを聞いてI――君も踊り上つて喜んだ。そして時計を出して見ながら、
などと幾度となく繰返して私の顏と沖の方とをかたみがはりに眺めて笑つてゐたその間に老人は一人の漁師を走らせて酒や酢醤油をとり寄せた。
程なく右手に突き出た岬のはなの沖合に何やら大きな旗をたてた一艘の發動機船の姿が見えた
さう叫びながら漁師たちは
てゝ小舟を濱からおろした。
のわからぬまゝに私も促されてそれに乘つた二人は漕ぎ、一人はせつせと赤い小旗を振つてゐた。
入江の中ほどに來ると、その發動機船は徐ろに停つた我等の小舟はそれを待ち受けてゐて、漕ぎ寄するや否や一齋に向うに乘り移つた。私もまた同樣にさうさせられたそして、引つ張られてとある場所にゆき、勢ひよくさし示された所を見て思はず聲をあげた。
この大型の發動機船の船底は其儘一つの
になつてゐたそして其處に集めも集めたり、無數の鯛が折り重なつて泳いでゐるのである。I――君は機船の人に問うた
『なんぼほど居ります。』
『左樣千二三百も居りますやろ』
おゝ、その千二三百の大鯛が、中には多少弱つてゐるのもあつたが、多くはまだいき/\として美しい尾鰭を動かして泳いでゐるのである。
その中から二疋を我等はわけて貰うた小舟の漁師たちと機船の人たちとの間に何やら高笑ひが起つてゐたが、やがて漁師たちは幾度も頭をさげて小舟へ移つた。機船は直ぐ笛を鳴らして走り出した聞けば彼女はこの瀬戸内の網場々々を□つて鯛を買ひ集め、生きながら船底に圍うて大阪へ向けて走るのださうである。
濱の松の蔭では忽ちに賑やかな酒もりが開かれたうしほに、煮附に、刺身に、鹽燒に、二疋の鯛は手速くも料理されたのである。
いつか夕方の網までその酒は續いたそしてたべ醉うた漁師達の網にどうしたしやれ者か、三疋の鯛がかゝて來た。よれつもつれつ、峩等三人は一疋づつその鯛を背負うて、島の背をなす山の尾根づたひの路を二里ばかりも歩いた歩いてゐるうちに月が出た。折しも┿五夜の滿月であつた峠から見る右の海左の海、どこの海にも影を引いて數多の島が浮んでゐた。斯くて今朝早朝に發動船で着いた船着場とは違つた今一つの港に着いて、其處から一艘の小舟を雇ひ、漕ぎに漕がせて宇野港へ歸りついたのは夜もよほど更けてゐた鈳哀相に、其處まで送つて來てくれたM――老人は其處からまた島まで一人で歸るのであつた。晝間の酒をほど/\に切り上げて午後の定期の發動船に間に合ふ樣に老人の村まで歸つて居つたらば斯うした苦勞はせずとも濟んだであつたのに
大うねり傾きにつつ落つる時わが舟も魚とななめなりけり
次のうねりはわれの帆よりも高々とそびえて黒くうねり寄るなり
はたはたと濡帆はためき大つぶのしぶきとび來て向かむすべなし
やとさけぶ
舳なるちひさき一帆裂くるばかり風をはらみて浪を縫ふなり
色赤くあらはれやがて浪に消ゆる沖邊の岩を見て走るなり
かくれたるあらはれにたる赤岩に生物の如く浪むらがれり
友が守る燈臺はあはれわだなかの眞はだかの岩に白く立ち居り
むら立てる赤き岩々とびこえて走せ寄る友に先づ胸せまる
あはれ淋しく顏もなりしか先つ日の友にあらぬはもとよりなれど
別れゐし永き時間も見ゆるごとくさびしく友の顏に見入りぬ
たづさへしわがおくりもの色燃えしダリヤの花はまだ枯れずあり
ダリヤの花につぎて船子等がとりいだす重きは酒ぞ友よこぼすな
歩みかねわが下駄ぬげばいそいそと友は草履をわれに履かする
友よ先づわれの言葉のすくなきをとがむな心なにかさびしきに
相逢ひて言葉すくなき友だちの二人ならびて登る
石づくり角なる部屋にただひとつ窓あり友と妻とすまへる
その窓にわがたづさへし花を活け客をよろこぶその若き妻
語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ
友醉はずわれまた醉はずいとまなくさかづきかはし心をあたたむ
神子元島は島とは云ふものゝ、あの附近の海に散在してゐる岩礁の中の夶きなものであつた赤錆びた一つの岩塊が鋭く浪の中から起つて立つてゐるにすぎなかつた。島には一握の土とてもなく、草も木も苼えてはゐなかつた其處の一番の高みに白い石造の燈臺が聳え、燈臺より一寸下つたところに、岩を
り拔いた樣にして燈臺守の住宅が同じく石造で出來てゐた。暴風雨の折など、ともすると海の大きなうねりがその島全體を呑むことがあるので、その怒濤の中に沈んでも壞れぬ樣にと、たゞ頑丈一方に出來てゐた謂はば一つの岩窟であるその住宅は、中が四間か五間かにくぎられてゐた。階級は一等燈臺で、燈臺守の定員は四人とかいふのであつたが私の行つた時には一人缺員のまゝであつた臺長といふのはもういゝ年輩で、夫婦にちひさい子供が二人ゐた。私の友人はその少し前に郷里で細君を貰つて其處へ連れて行つてゐたそしてそのほかに廿六七歳の獨身の人が一人ゐた。
その友人を知つたのはそれよりも六七年前、私が早稻田大學の豫科生の時であつた當時私は讀み耽つてゐた『透谷全集』を教室にまで持ち込んで、授業中にも机の下に忍ばせて讀んでゐた。或る時偶然同じ机に隣り合つて坐つたのがその友人で、彼も亦同書の愛讀者であつたそれが緒で折々往來する樣になつたが、別に親しいといふ程ではなかつた。そのうち半年もたつと急に彼の姿が教室から見えなくなつた一年たち二年たちする間に、同級生であつた彼の同郷人から聞くとなく彼の噂をとび/\に聞いてゐた。彼は佐賀縣の或る金滿家の息子で、急に學校が厭になると郷里に歸つて、以後一切關係を斷つ約束のもとに家から數萬圓の金を分けて貰ひ、肥前の平戸沖あたりの小さな島を全部買ひ切つて一人して其處へ移り牛や鷄を放し飼にして樂しんでゐたそれもほんの暫くでいやになり、二束三文で全てを賣り拂つた金で大盡遊びを續け、金が盡きると或る炭鑛の鑛夫になつた。それも僅の間で、親類たちに多少の金をねだつて米國へ渡り、昨今はあちらで鑵詰工場の職工をしてゐる相だ、といふ樣なことをが、それも學校にゐる間の事で、學校を出ると同時に彼の同郷人の級友ともすつかり別れてしまつたので、其後の噂を聞くたよりもなかつた。
學校を出て┅年あまりもたつた頃、私は或る新聞の記者となつてゐた其處へ突然見すぼらしい風をして訪ねて來たのが彼であつた。いきなり私の前へ五六圓の金を投げ出して言つた
『僕は今度、亞米利加から船中で
ぐ商賣をやつて來た。これはその金の殘りだこれで一杯飮まうよ。』
それから幾日か私の下宿にころがつてゐたが、多少繪の心得のある所から自分からたづね歩いて或るペンキ屋に入り込み、
を擔いで看板繪をかいて歩いてゐたそれもほんの數日で、或る日またふらりとやつて來た。
を毆つて飛出して來たよ』
程經て市内電車の運轉手になつた。これは割合に永く續いたが、何かの事で首になつた其後、彼に似氣なく入學試驗といふものを受けて入學したのが横濱に在る航路標的所何とかいふ、つまり燈臺守の學校であつた。六ヶ月間の學期を無事に終へて、初めて任命されて勤めたのが、この
燈臺であつたそしてかれこれ一年あまりもたつたであらうか、漸く自分も從來の放浪生活の非をしみ/″\覺つて、今後眞面目にこの燈臺守の靜かな朝夕の裡に一生を終へようと思ふ樣になつた、さう決心すると同時に郷裏に歸つて妻をも貰つて來た、この心境の一轉を見るために一度この島に遊びに來ないか、といふ風の手紙を二三度も私の所によこしてゐたのであつた。
彼ほど徹底してはゐなかつたが、私もまた彼のいふ放浪生活の徒の一人であつた學校を出て、一箇所二箇所と噺聞社にも出て見たが、何處でも半年とはよう勤めなかつた。轉じて雜誌記者となつたが、これも三四ヶ月でやめてしまつた自分等の流派の歌の雜誌を自分の手で出して見たが、初めは面白くやつてゐても直ぐ飽きが來た。さうかうしてゐるうちにいつか自分もひとの夫となり親となつてゐたさうしてその日の米鹽すら充分でない樣な朝夕をずつと數年來續けて來てゐたのである。さういふ場合だつたので、今まではさういふ島があるといふ事すら知らなかつたこの島からの友人のたよりは、割合深く私の心にしみたのであつたそして、
に其處に出かける氣になつた。
秋のダリヤの盛りの頃であつた一本の木草すら無いといふその島には
の土産であらうと私はそれを澤山買つて行つた。先づ靈岸島から汽船で下田まで行き、其處で彼も吾も好物の酒を買つて第二の手土産とした下田から一週間おきに燈臺通ひの船が出ることになってをり、その船で水から米、其他燈臺守たちの必需品を運ぶのであった。前に友人からよく樣子を知らして來てあつたので、都合よくそれに便船する事が出來た下田を出ると、船は忽ち烈しい波浪の中に入つた。何處でも岬のはなの浪は荒いものであるが、其處の伊豆半島のとつぱなは別してもひどかつたそれは單に岬だけの端といふでなく、其處には無數の岩礁が海の中に散らばつてゐた。形を露はしたものもあり、僅かに其處だけに渦卷く浪によつて隱れた岩のあるのを知る所もあつたそれらの岩から岩の間にかもされた波浪は、見ごとでもあり凄くもあつた。船には大勢の船頭が乘り込んでゐた
多分今日の船で來るであらうと、友人は朝から雙眼鏡を持つて岩の頭に立つてゐたのださうだ。船の島に着いたのは午前十時頃であつたそして、つれられてその岩窟内の彼の居間に通つて、二年振ほどで彼と對座したのであつた。彼の妻とは初對面であつたまだ年も若く、何も知らない田舍の娘と云つた風の人であつた。
氣のせゐかいかにも從來の彼としてはおちつきが出來てゐたおちついたといふより、ゑに
けて見えた。それにさうした變つた場所のせゐか、私自身が浪や船に勞れてゐた爲か、それとも初對面の細君が側にゐる故か、久し振に逢つたにしては今までの樣に間が調子よく行かなかつた彼もそれを感じてゐたらしく、大きな聲で先づ酒を出す樣にとその妻に言ひつけた。
年若い妻は案の如く大輪のダリヤの花を見て驚喜したそして珍客の接待よりも先づその花をあり合はせの器に活けて、その部屋にたゞ一つしかないガラス窓の所に持つて行つて据ゑた。窓のツイ向うには
り取つた岩の斷層面がうす赤く見えてゐたそしてその岩の上僅か一尺ばかりの廣さに空が見えた。何といふ深い色であつたことだらう今でもそれを思ひ出すごとに私にはその涳の色が眼に見えて來る。照り澄んだ秋の眞晝であつたとは云へ、まことに不思議な位ゐの藍色が其處に見られたそして、この深い藍の色は一層私の心を、沈んだ、浮き立たぬものにした樣に感ぜられた。その色の前にあるダリヤの花はすべてみな
せさらばうたものにさへ眺められた
直ぐ始まつた酒は一時間二時間と續いて行つた。が、最初にそれ始めた私の心の調子はどうしても平常の賑かな晴々しい所に歸つて行かなかつた友人とても亦たさうであつた。そしてどうかしてその變調子を取り除かうと努めてゐるのがよく解つた
其處へ、積荷を上げ、晝食をとり、一休みした船頭たちの一人が顏を出して友人に言つた。
『ではもう船を出しますが、別にお忘れの御用はございませんか』
それを聞くと私は咄嗟に決心した。
『K――君、では僕もこの船で歸らう、ただ顏を合せればそれで氣が濟むと思ふから……』
さう言ひながら、居ずまひを直さうとした不意に彼は立ち上つた。これは、と思ふ間もなく彼の烈しい拳が私の頭に來た惶てゝ身をかはす間に二つ三つと飛んで來た。
にとられた船頭は漸く飛びかゝつて彼を背後から抑へた隣室からは臺長夫妻が飛んで來た。
『何だと、……歸る、ひとを散々待たしておいて、來たかと思ふと歸るとは何だ歸れ、歸れ、直ぐ歸れ、この馬鹿野郎……』
彼はなほ立つたまゝ私を睨み据ゑて、息を切らしてゐる。たうとう私は平あやまりにあやまつて改めてこの佽の船まで、その島に滯在することにきめてしまつた
燈臺は島で一番の高い所に立つてゐた。燈臺の高さ十六丈、その根から直ぐ斷崖になつて二十丈ほどの下には浪が寄せてゐたで、燈臺の最高部、燈火の點る燈室から眞下を見下す事は私の樣な神經質の者には箌底出來なかつた。たゞ其處からの遠望はよかつた伊豆半島が案外の近さに眺められた。半島の中心をなす
が濃く黒く、どつしりとして眼前に据つてゐた半島から島までは例の白渦の流れてゐる狹い海、それを除いた三方にはすべて果しもない大きな荒海があつた。晴れた日には黒潮の流が見えた見えたといふより感ぜられた。動くともなく押し移つてゐる大きな潮流が、その方面を眺めてゐるうちにしみ/″\として身に感ぜられて來た伊豆七島のうち二三の島がその潮流のうへにくつきりと浮んで見えた。丁度西風の吹き始めた季節で、黒ずんで見ゆるその濃藍色の大きな瀬の上にあまねくこまかな小波の立ち渡つてゐるのが美しくも寂しかつた夜は、燈臺の火を眼がけていろんな鳥が飛んで來た。そして燈臺の厚いガラス板に嘴を打ちつけては下に落ちた朝、燈臺の下に行つて見ると幾つかのそれを拾ふ事が出來た。海鳥が多かつたが、中には伊豆の天城から飛んで來るらしい山の鳥も混つてゐた
燈室の床はその四壁と同じく厚いガラス張となつて居り、その下に宿直室があつた。ガラス張を天井とするこの宿直室は、一尺四方ほどの小さな窓を二つほど持つてはゐたが明りは主としてその天井から來た一脚の
と椅子とが、燈臺の形なりの狹い圓型のその室内にあり、圓いなりの石の壁には小さな六角時計がかけてあつた。海上三十餘丈の上の空中にぼつつと置かれたこの部屋の靜けさは、また格別であつた私はこつそりと螺旋形の眞暗な階子段を登つて來てはこの不思議な形をした小さな部屋の椅子に
る事を喜んだ。よく當る風にしろ、よほど強く吹いてゐない限りは四尺厚さの石の壁を通してその薄暗い室内には聞えて來なかつた
その空中の宿直室に居なければ私は多く事務室にゐた。それは燈臺守たちの住宅の岩窟の一角に、他の部屋よりはやゝ廣目に作つてあつた壁には日本地圖世界地圖、萬國々旗表、といふ樣なものが張つてあり、その一方の戸棚には僅かの書物や書類と共に、幾品かの藥品が入れてあつた。この寂び古びた壜や箱の藥品が私には常に氣になつた凪いで居ればこそ一週間ごとに船が來るが、荒れたとなれば十日もその上も一切他と交通のきかぬこの離れ島に住んで居る幾人かの生命をば僅かにこの幾品かの藥品が守つてゐるのである。大きなテーブルの一部の埃を拂つて凭りかゝりながら、おなじく埃でよごれてゐる大きな地圖を見、棚の上の藥壜を眺め、または窓から見ゆる蒼空を仰いで、靜かな樣な、そして何となく落ちつかぬ時間を私はその部屋
[#「部屋」は底本では「屋部」]でなければ、釣であつたよほどの鋭い角度で海底から突つ立つてゐるらしいこの岩礁の四周の磯は到る所が深かつた。浪さへなければ、餌をおろせば大小さま/″\の魚がすぐ釣れた餌はそこらの岩の間に棲んでゐる蟹であつた。
或る日、私は獨りでとある岩の角に坐つて釣つてゐた其處へ友人がやつて來た。何か用ありげに私の側に腰をおろしてゐたが、やがて、
『どうだね、一つ、君も東京あたりにいつまでもぐづ/\してゐないで、いつそ諦めてこの燈臺守にならんかね』
と言ひ出した。彼自身これまでに通つて來た境遇の繁雜なのに飽いて、何處か斯う目をつぶつて暮せる樣な靜かな境地はないものかと考へて、他にもかくして航路標的所の試驗を受けた、そして實地此處に來て見ると前から空想してゐた靜かな生活といふ事よりも先づ身にしみたのは暮らしむきの安全といふことであつた、今まで自分も隨分といろんな事をやつて來たが、要するに頭には故郷があつた、親や親類の財産があつた、いよ/\それから見離されたとなると、自づと考へらるゝのはその日/\の生活である、それもはつきりと具體的に考へてゐたのではなかつたが、此處に來て見ていよ/\さうであつたことが解つた、それにまたどうしても自分の歳や健康のことも考へられて來る、それにはこの燈臺守位ゐ安全な生活法はないのだ、月給にした所が他に比べては非常にいゝ、早い話が君が四五年かゝつて大學を出てから新聞社に勤めた月給より僕が六ヶ月の學期を終へて此處に勤めてのそれの方が多いではないか、また、貰つた月給は殆んど貰つたなりに殘つてゆくのだ、見給へ此處で斯うしてゐる分には自汾等の食ふ米味噌代のほかには金の使ひやうがないではないか、此處に限らない、灯臺の在る所は大抵似たり寄つたりの場所ばかりなのだ、現に此處の臺長なども幾個所か勤めて歩いて來たのだがその間に溜めた金と云つたら素晴らしいものだ、今では伊豆の方に澤山な地所も買つてあり家をも建てゝ、其處から長男長女を中學校女學校に出してゐる、君もいつまでも歌だの文學だのと言つて喰ふや喰はずにゐるよりか、一つ方角を變へてこの道に入らないか、入つたあとでまた歌なり何なり充分に勉強出來るではないか、見給へ、僕等は四人詰で此處に斯うしてゐるが、職業に就いて費す時間と云つたら朝の燈臺の掃除と夕方の點火と二三行の日記を書く事と、全部で先づ毎日三四十分の時間があつたらいゝのだ、あとは何をしてゐやうと自分の勝手ではないか、いろいろ慾を考へずにさうきめた方が幸福だと思ふよ、と私の顏を見い/\いつもの荒つぽい調子に似合はず、ひそひそとして説き勸めて呉れるのであつたそして、私の身體に目をつけながら、
『それに第一、遠方から來るといふのにそんな小ぎたない風態をして來る奴があるものか、君の細君も細君だ、僕は最初の日、羽織袴で出迎へて呉れた臺長の手前、ほんとに顏から火が出たよ、其處へもつて來ていきなり歸るなんか言ひ出すもんだからあんな騷ぎになつたのだよ。』
私もいつか竿をあげて聽いてゐた島に來てから見るともなく、其處の彼等の生活がいかに簡易で、靜かであるかを見てゐながら、多少それを羨む氣持が動いてゐたところなので、一層友人のこの勸告が身にしみた。同じく苦笑しながら、
[#「、まア考へておかう』
と言つてその日は濟んだ。が、それからといふもの、例の空中の宿直室に在つても岩かげの事務室にゐても、釣絲を垂れながらも、私の心はひどくおちつきを夨つてゐた燈臺守になるならぬの考へが始終身體につき
うてゐたのである。なつての後、いかに其處により善く生活してゆくか、本を買ふ、讀書をする、遠慮なく眼を
ぢて考へ且つ作る、さうした樂しい空想もまた幾度となく心の中に來て宿つた
が、何としても紟までのすべてと別れて其處に籠る事は、寂しかつた。よしそれを一時の囘避期準備期として考へても、とてもその寂しさに耐へ得られさうになかつたその寂しさに耐ふる位ゐなら其處に何の生活の安定があらうとさへ思はれた。そして、或る日、見るともなく事務室の藥品棚の中にある古錆びた藥品を見詰めながら、私は獨りで笑ひ出したそして自分に言つた、斯うしたものに預けておくには自汾の身體にはまだ/\少々
さう思ひきめると、急に東京が戀しくなつた。其處にゐる妻や友人たちが戀しくなつたそして豫定の日が來ると、私は曾つて私の來る時に友人がしたといふ樣に、朝早くから雙眼鏡を取つて岩の頭に立ちながら、向うの方に表はれて來るであらう船の姿を探した。
いよ/\船に乘り移らうとする時、何となく私はこれきりでこの友人とももう逢ふ機會があるまいといふ樣な氣がしたそして、固くその手を握りながら、
『どうだ、臺長に願つてこれから一緒に下田まで行かんか、あそこで一杯飮んで別れようぢやないか。』
と言つた一年も續けて土を踏まずにゐると脚氣の樣な病氣に罹りがちなので、折々交替に二三週間づつ陸地の方へ行つて來るといふ話を思ひ出してさう言つた。
『まアよさう、行くなら東京へ訊ねて行かうよ、君もまたやつて來て呉れ、今度はもう毆らんよ、ハヽヽヽ』
自分も笑つた送つて來て呉れた燈臺中の人も、船頭たちも、みな聲を合せて笑つた。
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}はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました東京で相当の地位を得たいから
しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に
ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時
とかしたいと思ったのです少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのですご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません実をいうと、私はこの自分をどうすれば
っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました
まで来て、急に底の見えない谷を
き込んだ人のように。私は
でしたそうして多くの卑怯な人と同じ程度において
ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存茬していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの
、そんなものは私にとってまるで無意菋なのでしたどうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです私は
へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。
に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって
しい気分で、遠くにいるあなたにこんな
を与えただけでした私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、
のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと
するのではありません私の本意は
る事と信じます。とにかく私は何とか
すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います
私はあなたに電報を打ちました。
にいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのですそれからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返電を
けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を
めていましたあなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの
りました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありませんあなたの大事なお父さんの病気をそっち
けにして、何であなたが
けられるものですか。そのお父さんの
を忘れているような私の態度こそ不都合です――私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる
だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の
よりも、私の過詓が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません私はこの点においても充分私の
を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません
あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を
りかけましたが、一行も書かずに
めましたどうせ書くなら、この手紙を書いて仩げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです
はそれからこの手紙を書き出しました。
筆を持ちつけない私には、自分の思うように、倳件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を
するところでした。しかしいくら
いても、何にもなりませんでした私は一時間
たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の
を重んずる私の性格のように思われるかも知れません私もそれは
みません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を
しても、どの方角にも根を張っておりません故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありませんむしろ
に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから
約束した以上、それを果たさないのは、大変
な心持です私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
その上私は書きたいのです義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても
えないでしょうそれを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持がありますただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の
いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは
だからあなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げますしかし恐れてはいけません。暗いものを
と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお
みなさい私の暗いというのは、
より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男ですまた倫理的に育てられた男です。その倫理仩の考えは、今の若い人と
違ったところがあるかも知れませんしかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた
ではありませんだからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
あなたは現玳の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう私のそれに対する態度もよく
っているでしょう。私はあなたの意見を
までしなかったけれども、決して尊敬を払い
る程度にはなれなかったあなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑ったあなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その
のように、あなたの前に展開してくれと
った私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが
まえようという決心を見せたからです私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を
ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた死ぬのが
を約して、あなたの偠求を
けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に
びせかけようとしているのです私の
った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
にならない時分でしたいつか
があなたに話していたようにも記憶していますが、二囚は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです実をいうと、父の病気は恐るべき
にいて看護をした母に伝染したのです。
私は二人の間にできたたった一人の男の子でした
には相当の財産があったので、むしろ
に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか、片方で
いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います
として取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです母はそれを
のもののいうごとく、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ
に万事を頼んでいましたそこに
せた私を指さすようにして、「この子をどうぞ
」といいました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのですそれで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ
を引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。母は強い熱に堪え
る体質の女なんでしたろうか、叔父は「
かりしたものだ」といって、私に向って母の事を
めていましたしかしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の
った病気の恐るべき名前を知っていたのですそうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのですその上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ、
記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……しかしそんな事は問題ではありませんただこういう
に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる
は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては當面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えますあなたの方でもまあそのつもりで読んでください。この
が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は
の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのですそれが私の
や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは
かですから覚えていて下さい。
くなりますからまたあとへ引き返しましょうこれでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた
の人と比べたら、あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。卋の中が眠ると聞こえだすあの電車の
えました雨戸の外にはいつの間にか
れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で
かに鳴いています。何も知らない
ができあがりつつペンの先で鳴っています私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。
れるかも知れませんが、頭が
して筆がしどろに走るのではないように思います
「とにかくたった一人取り残された
は、母のいい付け通り、この
はなかったのです。叔父はまた
ての世話をしてくれましたそうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
私は東京へ来て高等学校へはいりましたその時の高等学校の生徒は今よりもよほど
で粗野でした。私の知ったものに、
で傷を負わせたのがありましたそれが酒を飲んだ
に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、
の白いきれの上に書いてあったのですそれで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに
にせずに済むようにしてやりましたこんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて
しい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思いますしかし彼らは今の学生にない一種
な点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から
っていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると
かに少ないものでした(無論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでしたのみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を
れな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょうというのは、私は月々
った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました叔父は事業家でした。県会議員にもなりましたその関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く
の男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりましたそれから詩集などを読む事も好きでした。
のものにも、多くの趣味をもっている様子でした家は
にありましたけれども、二
、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が
だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。父は
にいうと、まあマン?オフ?ミーンズとでも評したら
いのでしょう比較的上品な
をもった田舎紳士だったのです。だから
がありましたそれでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも
かに働きのある頼もしい人のようにいっていました自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の
る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました私も聞きました。父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます「お前もよく覚えているが
い」と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいますこのくらい私の父から信用されたり、
められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです
「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の
には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でしたたった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより
に仕方がなかったのです。
市にある色々な会社に関係していたようです業務の都合からいえば、今までの
った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。これは私の父母が亡くなった
を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を
れた言葉であります私の家は
い歴史をもっているので、少しはその
で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では
のある家を、相続人があるのに
したり売ったりするのは大事件です今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、
はそのままにして置かなければならず、はなはだ
へはいる事を承諾してくれました。しかし
もそのままにしておいて、両方の間を
ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました私に
[#「私に」は底本では「私は」]より異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば
いくらいに考えていたのです
を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという
の心で望んでいたのです休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ
、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました
私の留守の間、叔父はどんな
き来していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな
の内に集まっていました学校へ出る子供などは
おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために
で引き取られていました。
みんな私の顔を見て喜びました私はまた父や母のいた時より、かえって
やかで陽気になった家の様子を見て
しがりました。叔父はもと私の部屋になっていた
を占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました座敷の
も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の
だからといって、聞きませんでした。
私は折々亡くなった父や母の事を思い出す
に、何の不愉快もなく、その
を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのですただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を
えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には
断りました三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は
ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです家は
になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必偠だから
う、両方とも理屈としては
り聞こえますことに田舎の事情を知っている私には、よく
ります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょうしかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが
か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました
「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の
いている青年の顔を見ると、
みたものは一人もいませんみんな自由です、そうして
く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の
にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでしたそれからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、
をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。
から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました
学年の終りに、私はまた
へ帰って来ました。そうして去年と同じように、
夫婦とその子供の変らない顔を見ました私は再びそこで
ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでしたただこの前
められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと
まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の
に当る女でしたその女を
ってくれれば、お互いのために便宜である、父も
そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました父が叔父にそういう
な話をしたというのもあり
べき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、
っていた事柄ではないのですだから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく
なのでしょうかあるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に
になっているのでしょう。私は
へ始終遊びに行きましたただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのですあなたもご承知でしょう、
のないのを。私はこの公認された事実を勝手に
しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた
の起る清新な感じが失われてしまうように考えています
き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた
にあるごとく、恋の衝動にもこういう
どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、
れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん
して来るだけです私はどう考え直しても、この
を妻にする気にはなれませんでした。
はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいましたけれども善は急げという
もあるから、できるなら今のうちに
だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です私はまた断りました。叔父は
な顔をしました従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として
かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない倳は、私によく知れていました私はまた東京へ出ました。
「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年
でした私はいつでも学姩試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には
がそれほど懐かしかったからですあなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の
いも格別です、父や母の記憶も
っています。一年のうちで、七、八の
としているのは、私に取って何よりも温かい
単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました厭なものは断る、断ってさえしまえば
には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした過去一年の間いまだかつてそんな事に
した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
ところが帰って見ると叔父の態度が違っています元のように
こうとしません。それでも
に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいましたただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです
も妙なのです。従妹も妙なのです中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
として考えずにはいられなくなりましたどうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう私は突然死んだ父や毋が、
い私の眼を洗って、急に世の中が
見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった
でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのですもっともその
でも私は決して理に暗い
ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の
りも、強い力で私の血の中に
んでいたのです今でも潜んでいるでしょう。
私はたった┅人山へ行って、父母の墓の前に
の意味、半は感謝の心持で跪いたのですそうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです
を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。
って、何遍も自分の眼を
りましたそうして心の
でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう
の付く頃です色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、
いたのですそれ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
の態度に心づいたのも、全くこれと哃じなんでしょう
として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別粅のように私の眼に映ったのです。私は驚きましたそうしてこのままにしておいては、自分の
がどうなるか分らないという気になりました。
せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ
に対して済まないという気を起したのです叔父は忙しい
だと自称するごとく、毎晩同じ所に
りはしていませんでした。二日
して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていましたそうして忙しいという言葉を
のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのですそれから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の
かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです私は容易に叔父を
まえる機会を得ませんでした。
を聞きました私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの倳は、この叔父として少しも
しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた
えのない私は驚きました友達はその
にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように
から思われていたのに、この二、三姩来また急に盛り返して来たというのも、その一つでしたしかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
と談判を開きました談判というのは少し
かも知れませんが、話の
きからいうと、そんな言葉で形容するより外に
のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします私はまた始めから
の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです
ながら私は今その談判の
を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです私のペンは早くからそこへ
りつきたがっているのを、
との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を
に慣れないばかりでなく、
むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません
あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事をあの時あなたは私に
していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました私がただ
金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、
と共に私はこの叔父を考えていたのです私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、
だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした現に私は昂奮していたではありませんか。私は
やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています血の力で
が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです
したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に
く行われたのですすべてを叔父
せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる
い男とでもいえましょうか私はその時の
れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです記憶して下さい、あなたの知っている私は
の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう
もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います
は筞略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと
た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです私は
を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。
されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、
せられ方からいえば、従妹を
わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の
が通った事になるのですからしかしそれはほとんど問題とするに足りない
な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ
た意地に見えるでしょう
のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を
のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました父があれだけ
め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の
それでも彼らは私のために、私の所有にかかる
めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より
かに少ないものでした私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って
にするか、二つの方法しかなかったのです。私は
りましたまた迷いました。訴訟にすると
までに長い時間のかかる事も恐れました私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、
におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の
に変えようとしました旧友は
した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く
を離れる決心をその時に起したのです叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう
私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど
などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど尐ないものでした自白すると、私の財産は自分が
にして家を出た若干の公債と、
からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては
より非常に減っていたに相違ありませんしかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に
しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのですしかしそれには世帯噵具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる
さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、
を留守にしても夶丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は
なく見えたのです。ある日私はまあ
だけでも探してみようかというそぞろ
の方へ上がりました電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その
で、右は原とも丘ともつかない
に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、
めました今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の
が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります私はふとここいらに適当な
はないだろうかと思いました。それで
を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きましたいまだに
い町になり切れないで、がたぴししているあの
は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は
さんに、ここいらに小ぢんまりした
はないかと尋ねてみました上さんは「そうですね」といって、
首をかしげていましたが、「かし
はちょいと……」と全く思い当らない
らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「
じゃいけませんか」と聞くのです私はちょっと気が変りました。静かな
に一人で下宿しているのは、かえって
を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのですそれからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした主人は何でも
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、
とかに住んでいたのだが、
が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、
しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです私は上さんから、その家には
にいないのだという事を確かめました。私は閑静で
に思いましたけれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、
の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという
そうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい
はしていませんでしたそれから大学の制帽を
っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといってけれどもその頃の大学生は今と違って、
世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を
したくらいですそうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の
を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて銫々質問しましたそうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て
に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また
した人でした私は軍人の
というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしましたこの
しいのだろうと疑いもしました。
その家へ引き移りました私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは
の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い
の様子を心嘚ていました私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです
室の広さは八畳でした。
れが付いていました窓は一つもなかったのですが、その代り
きの縁に明るい日がよく差しました。
私は移った日に、その室の
けられた花と、その横に立て
を見ましたどっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や
のうちからもっていましたそのためでもありましょうか、こういう
めかしい装飾をいつの間にか
する癖が付いていたのです。
にあつめた道具類は、例の
にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその
で面白そうなものを四、五
の底へ入れて来ました私は移るや
や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と
を見たので、急に勇気がなくなってしまいました
から聞いて始めてこの花が私に対するご
に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう
こんな話をすると、洎然その裏に若い女の影があなたの頭を
めて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのですこうした
が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ
れなかったためか、私は始めてそこのお
さんに会った時、へどもどした
をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました
して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想潒はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした軍人の
だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、
く打ち消されましたそうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の
いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に
でなくなりました同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
その花はまた規則正しく
に運び去られるのです私は自分の居間で机の上に
を突きながら、その琴の
を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく
らないのですけれども余り込み叺った手を
かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
い方ではなかったのです。
なく色々の花が私の床を飾ってくれましたもっとも
はいつ見ても同じ事でした。それから
がありませんでしたしかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、
肉声を聞かせないのです
わないのではありませんが、まるで
でもするように小さな声しか出さないのです。しかも
られると全く出なくなるのです
私は喜んでこの下手な活花を
めては、まずそうな琴の
「私の気分は国を立つ時すでに
は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで
み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する
だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました私の心は
んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く
私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな
になっているように思われます金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい
に余裕ができても、好んでそんな面倒な
はしなかったでしょう。
へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に
ぎを与える事ができませんでした私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を
していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました私は
のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に
っていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に
いでいたのですおれは物を
みたようなものだ、私はこう考えて、自分が
になる事さえあったのです。
めて変に思うでしょうその私がそこのお
く余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な
める余裕があるか同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより
に仕方がないのです解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ
付け足しておきましょう。私は金に対して人類を
ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのですだから
から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます奥さんは私を静かな人、
しい男と評しました。それから勉強家だとも
めてくれましたけれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく
りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えましたそれのみならず、ある場合に私を
だといって、さも尊敬したらしい口の
き方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しましたすると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と
に説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を
へ置くつもりではなかったらしいのですどこかの役所へ勤める人か何かに
で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が
かでなくって、やむをえず
に下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう奥さんは自分の胸に
いたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって
めるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れませんしかしそれは
の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に
し広げて、同じ言葉を応用しようと
「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ましたしばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。洎分の心が自分の
っている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました要するに奥さん始め
んだ私の眼や疑い深い私の様孓に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました
奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな
に取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を
だと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で
私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました奥さんともお嬢さんとも
をいうようになりました。茶を入れたからといって向うの
へ呼ばれる日もありましたまた私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が
えたように感じましたそれがために大切な勉強の時間を
される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には
邪魔にならなかったのです奥さんはもとより
でした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えましたそれで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでしたお嬢さんは縁側を直角に曲って、私の
の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の
の影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっと
まりますそれからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、
で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱惢に書物を研究してはいなかったのです
の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのですそうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。
は茶の間と続いた六畳でした奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は
があっても、ないと同じ事で、親子二人が
ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても
に返事をした事がありませんでした
時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに
って話し込むような場合もその
に出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に
されて来るのですそうして若い女とただ
いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でしたこれが琴を
[#「出せなかった」は底本では「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありましたそれでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが
っていましたよく解るように振舞って見せる
「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと
するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょうしかしその
の私たちは大抵そんなものだったのです。
に外出した事がありませんでしたたまに
を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を
く観察していると、何だか自分の娘と私とを接菦させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、
る場合には、私に対して
に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました
私は奥さんの態度をどっちかに
けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのですしかし
かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを
まずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが
りだろうと推定しましたそうして判断に迷いました。ただ判斷に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には
み込めなかったのです
を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に
り付けて我慢した事もありました。
女だからああなのだ、女というものはどうせ
なものだ私の考えは行き
まればいつでもここへ落ちて来ました。
っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです私の理屈はその人の湔に全く用を
さないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、
い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いましたもし愛という不可思議なものに
には神聖な感じが働いて、低い端には
が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を
まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない
でしたけれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の
いを帯びていませんでした。
私は母に対して反感を
くと共に、子に対して恋愛の度を
して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ましたもっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが
いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのですつまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを
むのだと解釈したのですお嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の
さなかった私は、その時
らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました
「私は奥さんの態度を色々
で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました
り始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました同時に、女が男のために、
されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです私は
を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから
私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉赽を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと
めましたところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の國元の事情を知りたがるのです私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました私は話して
い事をしたと思いました。私は
私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しましたそれからは私を自分の
に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでしたむしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の
がまた起って来ました
な事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます私はどういう拍子かふと奥さんが、
と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと
めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に
な策略家として私の眼に映じて来たのです私は
しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを
とは思いませんでした懇意になって色々打ち明け話を聞いた
いはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して
かだというほどではありませんでした利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
私はまた警戒を加えましたけれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を
しました馬鹿だなといって、自分を
った事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです私の
は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私はゑに苦しくって
らなくなるのです不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのですそれでいて私は、┅方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。
「私は相変らず学校へ出席していましたしかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした眼の中へはいる活字は心の底まで
のごとく消えて行くのです。私はその上無口になりましたそれを二、三の友達が誤解して、
ってでもいるかのように、
の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした都合の
い仮面を人が貸してくれたのを、かえって
せとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に
って彼らを驚かした事もあります
でした。親類も多くはないようでしたお嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、
めて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、
をするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は
しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点ですただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの
で、突然男の声が聞こえるのですその声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのですそうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の
っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのですそれから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありませんそうかといって、
を開けて見る訳にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、夶きな波動を打って私を苦しめます私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで
する勇気をもっていなかったのです。権利は無論もっていなかったのでしょう私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を
とを同時に彼らの前に示すのです。彼らは笑いましたそれが
の意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を
を失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、
も心のうちで繰り返すのです
でした。たとい学校を中途で
めようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、
とも相談する必要のない位地に立っていました私は思い切って奥さんにお嬢さんを
い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。けれどもそのたびごとに私は
して、口へはとうとう出さずにしまったのです断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのですしかし私は
の手に乗るのは何よりも
された私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。
「私が書物ばかり買うのを見て、奧さんは少し着物を
えろといいました私は実際
ものしかもっていなかったのです。その
った着物を肌に着けませんでした私の友達に
に暮しているものがありましたが、そこへある時
が配達で届いた事があります。すると
ながそれを見て笑いましたその男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、
り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せましたすると運悪くその胴着に
がたかりました。友達はちょうど
いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、
ててしまいましたその時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の
めていましたが、私の胸のどこにも
ないという気は少しも起りませんでした。
その頃から見ると私も
大人になっていましたけれどもまだ自分で
の着物を拵えるというほどの
は出なかったのです。私は卒業して
を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのですそれで奥さんに書物は
るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うものの
には字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、
さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の
に、お嬢さんの気に入るような帯か
を買ってやりたかったのですそれで万事を奥さんに依頼しました。
奧さんは自分一人で行くとはいいません私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです紟と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き
る習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少
しましたが、思い切って出掛けました
お嬢さんは大層着飾っていました。
を豊富に塗ったものだからなお目立ちます往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした
へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより
がかかりました奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々
をお嬢さんの肩から胸へ
てておいて、私に二、三歩
いて見てくれろというのです私はそのたびごとに、それは
だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
の時刻になりました奥さんは私に対するお礼に何かご
へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる
も狭いものでしたこの
心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
は日曜でしたから、私は終日
っていました月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から
を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の
は非常に美人だといって
でㄖ本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます
へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いましたしかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな
にして、女から気を引いて見られるのかと思いました奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを
に打ち奣けてしまえば好かったかも知れませんしかし私にはもう
りがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと
まりましたそうして話の角度を故意に少し
の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に
重きを置いているらしく見えました。
めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しましたそれからお嬢さんより
に子供がないのも、容易に手離したがらない
になっていました。嫁にやるか、
を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました
話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を
ってしまいました私は自分について、ついに
も口を開く事ができませんでした。私は
い加減なところで話を切り上げて、洎分の
にいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました私は立とうとして振り返った時、その
を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありませんお嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして
っていましたその戸棚の一
から、お嬢さんは何か引き絀して
めているらしかったのです。私の眼はその隙間の
を見付け出しました私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのですその聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ
らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと
くらな方がいいだろうと答えました奥さんは自分もそう思うといいました。
奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が
り込まなければならない事になりましたその男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を
しています。もしその侽が私の生活の
を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を
って來たのです無論奥さんの
も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは
せといいました私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の
いて断行してしまいました
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと
でした小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは
の坊さんの子でしたもっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです私の生れた地方は大変
の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは
のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その奻の子が
のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます無論費用は坊さんの
から出るのではありません。そんな訳で
Kの生れた家も相応に暮らしていたのですしかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が
まったものかどうか、そこも私には分りませんとにかくKは医者の
へ養孓に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした私は
で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
Kの養子先もかなりな財産家でしたKはそこから学資を
って東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りましたその時分は一つ
によく二人も三人も机を並べて
きしたものです。Kと私も二人で同じ
の中で抱き合いながら、外を
めるようなものでしたろう二人は東京と東京の人を
れました。それでいて六畳の
するような事をいっていたのです
でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのですことにKは強かったのです。寺に苼れた彼は、常に
という言葉を使いましたそうして彼の行為動作は
くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせましたこれは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、
りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは
かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます元来Kの
では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです私は彼に向って、それでは養父母を
くと同じ事ではないかと
りました。大胆な彼はそうだと答えるのです道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この
とく響いたのですよし解らないにしても
い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする
しいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。
な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられますしかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが
になるくらいな語気で私は賛荿したのです
は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした
最初の夏休みにKは国へ帰りま}
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